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  • 2012/01/13 掲載

【中丸満氏インタビュー】経済人としても偉大な平清盛――源平の相克から見えてくるもの

『源平興亡三百年』著者 中丸満氏インタビュー

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2012年の大河ドラマ『平清盛』に注目が集まる中、源平合戦を中心とする武士の時代についての関心も高まっている。源頼朝や平清盛などが登場してくる以前から、源平の武士は互いに意識し、時に激しく争ってきていた。そのような歴史について、長いスパンで論じた『源平興亡三百年』(ソフトバンク新書)の著者・中丸満氏に、その時代の面白さや醍醐味に関してお話を伺った。

平氏と源氏、それぞれの個性

――源平合戦というのは日本人にとって、とても馴染み深い歴史の出来事だと思うのですが、どうしてここまで深く根付いたとお考えですか?

 中丸満氏■なによりも『平家物語』の影響が大きいと思います。以仁王の乱から壇ノ浦の戦いに至る内乱は、一般に「源平合戦」といわれていますが、実際は源氏と平氏の覇権争いという単純な図式におさまるものではありませんでした。鎌倉軍の武将の多くは血筋としては平氏でしたし、源氏を再興しようという気概をもって頼朝の陣営に馳せ参じたわけでもありません。

 ところが『平家物語』は、この戦いを明確に源平争覇の戦いと位置付け、戦いの構図を単純化しました。その上、知識階級の人々に愛好された『源氏物語』などと違い、『平家物語』は琵琶法師の語りによって一般庶民にも享受され、古くから「国民的文学」としてそのエピソードの多くが人口に膾炙していました。平知盛や源義経、木曾義仲などの源平の武将をはじめ、斎藤実盛や悪七兵衛景清、梶原景季、巴御前などの武者にいたるまで、その生きざまが後世の人々の共感を生み、近世以降も浄瑠璃や講談、小説、マンガなどの題材として、源平合戦の物語が再生産され続けたために、文化として根付いているのだと思います。

 ただ、あまりにも『平家物語』のインパクトが強いせいか、物語の虚構が史実のように信じられることになってしまったのも事実です。横暴な独裁者という清盛の一般的なイメージはその最たる例といえます。

photo

『源平興亡三百年』

――源平の戦いというと、どうしても義経や清盛などに注目が集まりがちですが、本書を読むとそれよりもはるか以前から争いがあったこともわかります。このあたりの歴史についてなぜ関心をお持ちになったのでしょうか。

 中丸氏■源平の歴史を調べるとき、武士の成立史は避けて通れない課題です。かつて、武士は地方の豪族や有力農民の中から生まれ、源平の棟梁の下に団結して腐敗した貴族政治を倒し、新時代の担い手になったと理解されていました。

 しかし、武士研究の進展に伴い、実際は武士の多くも朝廷の官位を有しており、人民から収奪を行う支配階級の一員に過ぎなかったことが明らかにされています。また、10世紀に起こった平将門の乱の鎮圧に携わった平貞盛や源経基などの武者やその子孫が、朝廷や国衙に「武士」として認知されることで、「武士の家」が生まれたという考え方もあります。貞盛は平清盛の先祖、経基は清和源氏の祖といわれる人物であり、このことからも武士の成立と源平の発展は切っても切れない関係にあるのです。

 さらに、関東を制圧し「新皇」を名乗った平将門、「天下第一武勇之士」といわれた源義家、源氏没落の原因をつくった源義親、その義親を追討した平正盛など、平清盛や源頼朝以前にも、源平には魅力的な人物が数多くおり、知れば知るほど興味は尽きません。

――源氏と平氏それぞれの特性はどのような点にあると中丸さんはお考えでしょうか。

 中丸氏■時代や家系によって異なるので一概には言えないのですが、総じて源氏は激しい同族争いを繰りひろげた一族だったといえます。たとえば、源義家の弟義綱の一族は源為義(義家の孫)に追討され、その為義も保元の乱で息子の義朝に斬首されました。頼朝は義経のみならず弟の範頼、従兄弟の木曾義仲、叔父の源行家、志田義広をことごとく粛清し、頼朝の次男実朝は鶴岡八幡宮の境内で甥の公暁に殺されて、清和源氏の正統は途絶えるのです。

 もちろん、平氏も同族争いと無縁だったわけではありません。平将門の乱は激しい族内対立が発端でしたし、伊勢平氏の祖平維衡も伊賀・伊勢で勢力を広げる際、桓武平氏の平致頼と合戦し朝廷に罰せられています。ただし平氏の場合、「骨肉の争い」というむごたらしさは、それほど感じません。特に平清盛の一族は団結力が強かった。棟梁・清盛と異母弟頼盛、清盛の嫡男重盛の一族と平宗盛・知盛ら平家主流派の間でぎくしゃくした関係があり、事実、頼盛は平家都落ちの際も京にとどまり、鎌倉に下って頼朝の庇護を受けましたが、少なくとも清盛の存命中は一門が分裂することはほとんどありませんでした。

 源平のもう1つの特徴としては、合戦の勝利に対する執着にかなりの差があるように思います。源氏は勝利至上主義で勝つために手段を選ばないようなところがあります。壇ノ浦の戦いで義経が非戦闘員である水夫を射殺したのは最たる例ですが、その分、強かったのは確か。反面、平氏は夜討ちを嫌い、和平提案を真に受けて襲撃を受けるなど、戦場においても融通が利かずに一敗地にまみえることが多かった。どちらが正しかったのかは各人の判断によると思いますが、私自身は平和な平氏にシンパシーを感じます。

――広いスパンで見ると源平の歴史は武士の時代の始まりとも言えるかと思います。武士の台頭の背景を教えてください。

 中丸氏■源平の武者が中央政界に進出する足掛かりとなったのが平将門の乱だったことは先に述べました。将門追討の功により、平貞盛や源経基、藤原秀郷が官位を得て軍事貴族となり、その子孫も朝廷から認められた「武士」として繁栄します。やがて、その中から地方の武士団を糾合する「棟梁」が現れ、サバイバルレースを勝ち抜いた平清盛、源義朝という2人の棟梁が平治の乱で対決し、源氏は敗れて没落、平氏の栄華が始まります。この背景には、「院政」という当時の朝廷社会を特徴づける政治形態があったことも見逃せません。貴族社会は極端な門閥主義で、家柄によって出世の限界が決まっていました。

 しかし、天皇家の家長である「治天の君」が独裁的な力をふるうことが多かった院政期においては、たとえ出自が低くても、院政を行う上皇との個人的な関係によって立身する者も少なくありませんでした。平治の乱で滅んだ信西はその代表で、藤原氏南家という傍流に生まれ、出家前は五位の少納言という下級官僚に過ぎませんでしたが、出家後は抜群の学才を生かして鳥羽院の近臣となり、保元の乱後は後白河天皇の乳母の夫として権勢をふるいました。

 源平の武士も同様で、平清盛の祖父正盛は白河院の近臣として平氏興隆の端緒をつかみました。摂関家の家人となった父為義と袂を分かった源義朝は、鳥羽院の近臣となって清和源氏の嫡流の地位を得ることができました。武力・財力・学識などの「実力」、院との個人的なつながり(男色を含む)さえあれば、出自を越えて立身出世も可能だった院政期という時代も、武士の台頭には欠かせない条件だったのです。

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