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  • 2016/10/05 掲載

リコー 創業者 市村清氏、年商2兆円企業に押し上げたのは「2代目の人選」にあり

連載:企業立志伝

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「販売のリコー」という言い方があります。事務機器メーカー・リコーの営業力は強く、大企業から中小企業、商店に至るまで全国津々浦々に営業網は張り巡らされていました。今や年商2兆円超の大企業を作り上げたのは「アイデア経営者」として一世を風靡した市村清氏です。リコーに限らず、三愛や三愛石油、さらには明治記念館などもつくり上げた市村氏は、まさに時代の先頭を走る経営者でした。

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

1956年広島県生まれ。経済・経営ジャーナリスト。慶應義塾大学卒。業界紙記者を経てフリージャーナリストとして独立。トヨタからアップル、グーグルまで、業界を問わず幅広い取材経験を持ち、企業風土や働き方、人材育成から投資まで、鋭い論旨を展開することで定評がある。主な著書に『世界最高峰CEO 43人の問題解決術』(KADOKAWA)『難局に打ち勝った100人に学ぶ 乗り越えた人の言葉』(KADOKAWA)『ウォーレン・バフェット 巨富を生み出す7つの法則』(朝日新聞出版)『「ものづくりの現場」の名語録』(PHP文庫)『大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ』(ビジネス+IT BOOKS)などがある。

大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ (ビジネス+IT BOOKS)
・著者:桑原 晃弥
・定価:800円 (税抜)
・出版社: SBクリエイティブ
・ASIN:B07F62BVH9
・発売日:2018年7月2日

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市村清氏が銀座に建設した、通称「三愛ビル」

「富士山」ではなく「八ヶ岳」的な企業グループ

できごと
1936理化学興業から独立、理研感光紙を設立
1938商号を理研光学に変更
1945三愛商事(1948年に三愛に)設立
1946創業者・市村清氏が社長就任
1947憲法記念館を明治記念館として再興
1950カメラのリコーフレックス IIIが大ヒット
1952三愛石油を設立
1955卓上複写機「リコピー101」を発売
1963理研光学から社名をリコーに変更
1965電子リコピーBS-1が大ヒット「リコーの救世主」に
1968市村清氏死去
1969舘林三喜男氏が社長就任
1975デミング賞受賞。
1975日本で初めて「オフィス・オートメーション」を提唱
(出典:リコーHP『リコーの歩み』」と「三愛会『市村清年譜』をもとに筆者作成)
 事務機器などで知られるリコーに代表される企業グループは「リコーグループ」ではなく、「リコー三愛グループ」と呼ばれます。「リコーグループ」というとリコーを中心とする国内外の工場や販売会社などのことですが、それ以外に三愛や三愛石油、リコーエレメックスなどのグループ企業があるからです。

 リコーグループはほかの企業との間に業種的なつながりはありません。それだけに、よく事情を知らない人は「なぜこれほど多岐にわたるグループ構成になっているのだろうか」と不思議に思うかもしれません。

 唯一共通するのは、すべてがリコーの創業者・市村清氏(1900年~1968年)が手がけた企業だということです。

 市村氏はリコーの前身・理研感光紙(1936年設立、のちに理研光学工業、リコーに変更)の創業者です。戦前の日本を代表する財閥の一つ、理研コンツェルンの総帥・大河内正敏氏に卓越した販売力と経営力を認められた、昭和初期から中期を代表する経営者の一人・市村氏は先見性と多彩な人的ネットワークを持っていた関係上、コカ・コーラやリース業といった、それまで日本になかったビジネスを持ち込む実業家でした。

 明治記念館のように有力者に頼まれて事業に関わることもよくありました。そこから生まれたのがこのような多種多様な企業群です。企業の多角化、異業種への進出は失敗に終わることも多いのですが、リコー三愛グループの場合は、リコーが多角化をしたというよりは、稀代の天才・市村氏だからこそ成功した独特の経営形態と言えます。

 「経営の神様」松下幸之助氏は自身の企業グループが電機事業という一つに特化した、言わば「富士山」的な経営形態であるのに対し、市村氏の多種多様な企業グループをいくつもの山が連なる「八ヶ岳」的な経営形態と評していました。

 グループ間に業種的なつながりがないだけに、リコー三愛グループは今も昔もゆるやかな連帯となっていますが、その中心には「人を愛し 国を愛し 勤めを愛す」という「三愛精神」があり、この三愛精神がグループの精神的支柱と言えます。

抜群の成績を上げることで独立へ

画像
1955年発売の「リコピー101」は機械遺産に認定されている
(出典:リコー報道発表)

 これほどの企業クループを一代で築いた市村氏ですが、そこに至る道のりは平坦なものではありませんでした。1900年に佐賀県の貧農の家に生まれた市村氏は学校の成績が良く、名門・佐賀中学に入学したものの、学費を支払うことができずに一学期で退学、地元の銀行の事務見習いとなっています。

 そこであらためて勉強の必要性を痛感した市村氏は銀行の本店への異動を機に中央大学専門部(夜間)に入学しますが、結核に罹ったことなどもあり、ここでも3年で中退しています。以来、市村氏は大陸での銀行勤務と獄中生活(のちに無罪)や保険不毛の地と呼ばれた熊本での保険の外交員生活などさまざまな苦労を重ねますが、転機は1933年に訪れます。

 市村氏は九州で保険の販売を行うかたわら、理科学研究所が開発した感光紙の販売を行っていましたが、抜群の成績を上げたことで、大河内氏より理化学興業の感光紙部長として招聘されたのです。

 そしてここでの活躍が認められ、1942年に理研光学工業は理研から独立しますが、その3年後に終戦を迎えます。

 その際、市村氏は戦後はサービス業が最適であるとして三愛商事(のちの三愛)を設立、1946年8月、銀座4丁目の角に大理石を随所に使った新店舗をオープン、食料品を「適正価格」で販売することで大変な人気を博することになりました。

【次ページ】リコーが長く繁栄し続けている理由とは

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