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  • 2018/11/13 掲載

「3倍働き、給与は3分の1以下」そんな社員を支えたANA(全日空)創業者の言葉

連載:企業立志伝

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国内線、国際線ともに国内最大規模の全日本空輸(以下「全日空」)ですが、1952年の設立時は「2機のヘリコプターと、たった30人からのスタート」に過ぎませんでした。しかし、そこには「日本の空を守る」という強い使命感が満ちあふれていました。志は高いものの、お金も機材もない、そんな窮乏の時代に社員を励まし、会社を支えたのが初代社長・美土路昌一氏の言葉でした。

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

1956年広島県生まれ。経済・経営ジャーナリスト。慶應義塾大学卒。業界紙記者を経てフリージャーナリストとして独立。トヨタからアップル、グーグルまで、業界を問わず幅広い取材経験を持ち、企業風土や働き方、人材育成から投資まで、鋭い論旨を展開することで定評がある。主な著書に『世界最高峰CEO 43人の問題解決術』(KADOKAWA)『難局に打ち勝った100人に学ぶ 乗り越えた人の言葉』(KADOKAWA)『ウォーレン・バフェット 巨富を生み出す7つの法則』(朝日新聞出版)『「ものづくりの現場」の名語録』(PHP文庫)『大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ』(ビジネス+IT BOOKS)などがある。

大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ (ビジネス+IT BOOKS)
・著者:桑原 晃弥
・定価:800円 (税抜)
・出版社: SBクリエイティブ
・ASIN:B07F62BVH9
・発売日:2018年7月2日

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全日本空輸のボーイング727。1964年から1990年まで20年以上、多くの人に喜びを与えてきた

(写真:毎日新聞社/アフロ)


小説家志望の苦学生から新聞記者の道へ

 美土路氏は1886年、岡山県津山市で中山神社の宮司を務める父・芳治郎、母・花の長男として生まれています。津山中学時代から文学に傾倒し、将来は小説家になることを目指していた美土路氏ですが、父親が宮司とはいえ、家は貧しく、一時は大学進学を諦めようとしましたが、1905年に何とか憧れの早稲田大学文学部英文科に進むことができました。

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 そのまま順調に進めば小説家か文学者になったはずの美土路氏ですが、両親からの仕送りは部屋代と数冊の古本を購入すればなくなるほどの額にすぎませんでした。生活のためにさまざまなアルバイトをする中で出会ったのが雑誌の編集です。ここで才能を発揮した美土路氏は「大学を中退して、新聞記者になろう」(『現在窮乏、将来有望』p83)と決意、1908年に東京朝日新聞社に入社しています。

 以来、美土路氏は日本が戦争へと向かう難しい時代に記者として活躍。1934年には伝説の大記者・緒方竹虎氏の後任として東京朝日新聞編集局長に就任するなど、事実上朝日新聞を代表する記者となっています。そして終戦の4カ月前に新聞記者生活にピリオドを打ったのです。

 その後、美土路氏は生まれ故郷の津山に約20ヘクタールの土地を取得。「美土路塾」を立ち上げて、地元の青年たちとともに土地を開墾しながら戦後の日本のために有為な人材を育成しようと事業に着手します。ところが、それからわずか数カ月後の1945年12月、朝日新聞社の新体制構築に関する相談に乗るため上京した美土路氏は朝日新聞時代の後輩・中野勝義氏と偶然出会います。そしてこの出会いこそが、のちの全日空の創業へとつながっていったのです。

飛行機野郎を生き延びさせるために興民社を設立

 中野氏は美土路氏が朝日新聞で航空部長をしていたころの部次長で、当時は大日本飛行協会の庶務部長を務めていました。目指していたのはGHQによって仕事を奪われた民間航空関係の人材を「いつか」に備えて温存することでした。その資金を得ようと古巣の朝日新聞社を訪ねたもの、にべもなく断られ、どうしようかと困っていた中野氏が出会ったのが、元上司の美土路氏だったのです。

 何をするにしても先立つものはお金です。そのお金を集めるためには「世間に名の知られた、象徴的な人物が必要」(『現在窮乏、将来有望』p37)と考えた中野氏は、その役割を美土路氏に引き受けてもらいたいと申し出ます。しかし美土路氏は故郷で美土路塾を始めたばかりで、その余裕はありませんでした。渋る美土路氏を中野氏は「頼めるのは美土路部長だけなんです」と言って事務所へと案内、元民間航空関係者の救済組織「社団法人興民社」の構想について説明しました。

 当時の日本人は誰もが生きていくのに精いっぱいの時代でした。ましてやGHQによって飛行機をつくることはもちろん、飛ぶことも禁止されたパイロットや整備士たちにとって生きていくことは大変なことでした。では、彼らを放っておいたらどうなるのか、いつの日か日本が再び自分たちの手で飛行機をつくり、空を飛ぼうと思っても肝心の人材がいなくてはどうにもなりません。

 中野氏はこうした人々を何としてでも救い、そして「いつか」に備えるために会社をつくろうとしていたのです。朝日新聞時代、美土路氏も航空関係者とは縁があっただけに、最終的には中野氏の熱意に押され、興民社会長を引き受けることになりました。

 ただし、興民社は航空事業ができるわけではありません。あくまでも「いつか」のための組織であり、そのためには運送業でも土木建築業でも、あるいは機械の修理でも何でも引き受けて、とにかく何でもやってお金を稼ぎ、みんなで生き抜いていく会社でした。その間、美土路氏は朝日新聞時代の人脈を生かして政財界の大物たちとの交流をはかり、また私財を売って当座の資金をつくるなど苦労を強いられていますが、そんな苦労が報いられる日が徐々に近づいてきました。

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全日本空輸のあゆみ

 1950年、GHQは民間航空を認める方向へとようやくかじを切ったのです。当時の気持ちを美土路氏はこう話しています。

「興民社の事業を続けることによって、翼をなくした飛行機野郎たちを生き延びさせ、日本の航空技術を温存させることにはある程度成功しましたが、彼らを大空に帰してやる事業はまったくこれからです。今日の私にとっての生きがいは、日本の大空を再び飛び回る飛行機野郎たちの喜々とした姿を見ることです」(『現在窮乏、将来有望』p60)

 1952年、いよいよ「空を取り戻す」活動が本格化します。

【次ページ】「日航の3倍働き、給与は3分の1以下」乗り切ったカギは?

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