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2017年07月11日

連載:企業立志伝

森永製菓の創業者 森永太一郎氏を支えた「たった一つのキャンディ」との出会い

外国の優れた商品に出会い、日本と日本人のためにいつかはこうした商品を凌駕するほどの商品をつくりたいと願った日本人は少なくありません。そこにあるのは「日本人の頭と手で」という強い思いです。日本を代表する菓子メーカー・森永製菓の創業者・森永太一郎氏もアメリカでのたった一つのキャンディとの出会いから洋菓子づくりを思い立っています。その修業はあまりに過酷なものでしたが、それを支えたのは最初の強い思いでした。

執筆:経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

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森永製菓はたった2坪の工場で西洋菓子づくりをスタートさせた


生涯守り続けた商人としての「4か条の心得」

 1865年、佐賀県伊万里町に生まれた森永太一郎氏の祖父・太兵衛氏は有田焼の陶器問屋や魚問屋を営み、「伊万里一の商人」と呼ばれたほどの成功をおさめていますが、その跡を継いだ父・常次郎氏は明治維新前後の激動期の中ですべてを失い、6歳の太一郎氏と妻を残して病没しています。

 やがて母親は再婚したものの、幼い森永氏は嫁ぎ先に引き取られることはなく、半年ごとに親戚の家を転々とするという恵まれない幼少期を送っています。貧しさゆえに小学校に通うこともできなかった森永氏ですが、12歳の時に川久保商店の住み込み店員となり、夜は店主の川久保雄平氏が主宰する川久保塾の塾生として4、5歳も年下の子どもたちと一緒にようやく勉強をすることができるようになりました。

 勉強熱心な森永氏は川久保氏から「将来、学問の道に進まないか?」と勧められるほどでしたが、森永氏の夢はただ一つ祖父のような立派な商人になり、落ちぶれた森永家を盛り返すことでした。

 そんな森永氏に商人への道を開いたのが伯父で伊万里の陶器問屋を営む山崎文左衛門氏です。行商から身を起こして店を開いた苦労人の山崎氏は森永氏を「一人前の商人に仕込む」ことを承諾、50銭のお金と天秤棒を森永氏に与え、商人として守るべき4か条を言い渡しました(『菓商』p22)。

一、どんな場合でも、正当な商品だけを扱い、不正直なものを売買しない。
二、目先の利益に釣られて、粗末な品物を扱わない。
三、正当と信じてつけた値段は、お客から何と言われても下げない。
四、仕事を急がず、十年を区切りと決めて堅実にやる。

 この4か条は森永氏にとって生涯大切な教訓となりました。伯父の教えを胸に行商を始めた森永氏の元には儲けの大きな安物を売らないかという誘いもありましたが、伯父の教えに背くような商売はすまいと、良い商品だけを扱ったことで徐々に評判が高まり、やがて森永氏は行商仲間で誰よりも早く品物を売ることができるようになりました。

人生を決定づけた「たった一つのキャンディ」との出会い

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(クリックで拡大)

森永太一郎氏の主な年表

 行商のかたわら、川久保氏の所で勉学にも励んだ森永氏は帳簿の付け方や商用文の書き方まで身に付けたことで1878年、伯父から行商をやめて山崎商店に入ることを勧められるまでになりました。

 やがて山崎商店で伯父の代理として大きな商談をまとめられるほどの力をつけた森永氏は伊万里の陶器問屋が共同出資して横浜に出した有田屋で働くようになりましたが、そこでも大いに商才を発揮、「有田屋の森永太一郎ってのは若いけどなかなかのやり手だ」と言われるほどになっています。

 その後、いくつかの商店を経て森永氏は1888年に「九谷焼をアメリカで売りさばいて、百万長者になってやろう」という野望を抱いて渡米しますが、値段の高さからまったく売れず、最終的に多額の借金だけが残ることになりました。

 百万長者になるどころか帰国するお金もない森永氏が公園で時間を潰していたところ、60歳くらいの上品な婦人から差し出されたのが美しい包装紙に包まれたキャンディでした。「うまい」とそう叫んだ森永氏の心に浮かんだのが「洋菓子の職人になろう」でした。

 当時の日本は明治維新以降、西洋に追いつこうと懸命でした。やがて日本でも洋菓子が広まるはずですが、まだそんな洋菓子をつくれる日本人などいるはずもありません。森永氏はアメリカで洋菓子をつくる技術を修得して、安くておいしい洋菓子を日本人のためにつくりたいと考えたのです。

驚くほどの安月給と過酷な職場で技術を身に付ける

 しかし、当時のアメリカには中国人や日本人を毛嫌いし排斥する動きがありました。そのため、洋菓子を製造する工場に入りたいという森永氏の希望がかなうことはなく、アメリカ人の家で下男同然の仕事をするほかはありませんでした。

 1890年、一旦、日本に帰国した森永氏は3カ月日に再び渡米、ようやく念願のホームベーカリー(パン・菓子屋)で働くチャンスを手にしました。仕事は過酷なものでした。

 1日の労働時間は15時間、月給も16ドルと驚くほどの安さでしたが、ここでも森永氏は文句ひとつ言わずに懸命に働いた結果、わずか1年でパンを焼く技術を身につけ、ケーキ職人としての修業もできるようになりました。

 公園で洋菓子職人になりたいと思い立ってから4年後のことでした。

 1899年、洋菓子の製造技術を身に付けた森永氏は日本に帰国、赤坂溜池の貸家の裏庭に二坪の作業場を建て、「森永菓子製造所」の看板を掲げました。34歳の時です。友人たちからは「アメリカ帰りのくせにしみったれで意気地がなさすぎる」と揶揄されましたが、師匠であるブルーニング氏や伯父の山崎氏仕込みの堅実な考え方を守る森永氏は意に介することはありませんでした。

【次ページ】人がいない、技術がない、資金がないと言っていたら事業はできない

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