• 2026/05/07 掲載

【衝撃告白】借金は売上の5倍…銀行が介入…大阪の140年企業が辿った「大逆転の軌跡」

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140年以上の歴史を持つ老舗化粧品メーカー、桃谷順天館(大阪市中央区)。日本最古の化粧品専門研究所を擁し、創業時から続く看板商品が今も売れ続けている。しかし同社はかつて、売上の4~5倍にまで借入が膨れ上がるなど、倒産寸前まで追い詰められた時期を経験している。特に驚きなのが、貸付を回収しようとした銀行が経営に介入し、創業家を会社から追い出す事態も起きたのだ。こうした窮地の中で呼ばれたのが、現社長(5代目)の桃谷 誠一郎氏であった。想像を超える厳しい現実に直面した当時の状況について同氏に話を聞き、前編では当時の状況を、後編(明日、5月8日公開)では経営状況が回復するまでの道のりを紹介する。
聞き手・構成:編集部 井内 亨   執筆:ビジネスライター 和地 慎太郎(わち・しんたろう)

ビジネスライター 和地 慎太郎(わち・しんたろう)

東北大学大学院応用化学専攻修了。大手製造業を経て自治体に勤務し、大学での産学連携業務も経験。現在はビジネス分野を中心に取材・執筆。導入事例、記事広告、技術紹介、セミナー記事、SEO記事、法令解説記事などのほか、企業向けコンテンツ制作にも携わる。理系・技術職出身で、環境分野(脱炭素・廃棄物・水質)に強み。脱炭素アドバイザー(環境省認定)、公害防止管理者。著書に『ビジネス教養として知っておくべきカーボンニュートラル』(ソシム)。

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日本最古の化粧品研究所を持つ桃谷順天館はどのような歴史をたどってきたのか
(画像:桃谷順天館提供)

20年で「売上3倍」、140年続く老舗の凄み

 大阪市に本社を置く桃谷順天館は、1885年(明治18年)創業の化粧品メーカーで、慶長の時代から約400年続く薬種商をルーツに持つ。創業者がにきびに悩む妻のために生み出した「にきびとり美顔水」が、創業のきっかけとなった。

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【画像付き記事全文はこちら】
創業当時の桃谷順天館の社屋
(画像:桃谷順天館提供)

 この美顔水は、当時の処方のまま現在も販売され続けるロングセラー商品である。日本初の西洋医学処方による化粧水として、「日本化学会化学遺産」(2020年3月認定)にも認定されており、140年の歴史がこの1本に凝縮された存在と言える。

 1913年には業界に先駆けて化粧品試験部を設置、これが現在では「日本最古の化粧品研究所」(冒頭の画像)となっている。こうした研究開発への姿勢は創業時から変わらない同社の強みだ。

 業績も堅調に推移している。ここ20年で売上は3倍以上に伸び、2025年11月期には売上高185億円を超え、近年における過去最高を記録した。

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桃谷順天館 代表取締役社長 桃谷 誠一郎氏
東京理科大学 薬学部卒、薬剤師。慶應義塾大学大学院経営学修士課程(MBA)修了。1989年、桃谷順天館入社後、営業部・海外・経営企画室等を経て、1996年、代表取締役社長に就任。

(画像:桃谷順天館提供)

 しかし、現社長の桃谷氏が1989年に入社した当時、この会社の姿はまるで違っていた。売上を大きく上回る借入を抱え、会社は倒産寸前まで追い詰められていたのである。

業界トップから一転…「競合の台頭・業界構造の変化」で窮地

 どのようにして倒産寸前にまで陥ったのか。そもそも桃谷順天館は、桃谷氏によれば、化粧品業界屈指の売上を誇っていた時期もあったという。

「一時は化粧品業界のトップだったんですね。第2次世界大戦の前がマックスで良かったです」(桃谷氏)

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1932年(昭和7年)雑誌「婦人サロン12月號」に掲載された広告
(画像:桃谷順天館提供)
 その強さを支えていたのが、積極的な広告展開。明治期から新聞広告に資金を投じ、その後もラジオやテレビへと時代のメディアに合わせて出稿を続けてきた。力道山や吉永小百合といった著名人をコマーシャルに起用するなど、広告戦略において先駆的な存在でもあった。

 しかし時代は変わった。戦後の復興期に状況は一変する。

 ダイエーをはじめとする量販店が全国的に広がるにつれ、同社の主力ブランド商品が目玉商品として安売りされる機会が増えていった。「テレビで吉永小百合さんが宣伝している化粧水が、量販店ではこんなに安く買える」。そうした状況が広がり、価格は崩れ、利益も削られていった。

 一方、戦後に台頭した資生堂やコーセー、カネボウといった企業は、問屋を介さず百貨店での対面販売を行う「制度品販売」というモデルを確立。ブランドの価値を維持しながら利益を積み上げていった。

 桃谷順天館は戦前からの問屋流通を強みとしてきただけに、その方式を転換することは容易ではなかった。その結果、薄利多売の構造に陥り、利益は徐々に下がっていった。

 それでも広告はやめられなかった。「広告を続けていきたいという思いで銀行さんからお金を借りながらやっていきました」。結果、広告費が利益をさらに圧迫し、経営状態は悪化の一途をたどっていった。

借入は「売上の4~5倍」…実質的な経営権が「銀行の手」に

 会社の経営悪化に伴い、大手金融機関が次々と手を引き、残った銀行が経営責任を追及、ついには経営に介入し始めた。

 それまでの経営責任を取らせる形で、当時の社長であった祖父と、父を含む創業家の直系一族は全員、会社を去ることを求められた。保有していた株式もすべて手放すことになった。

 会社の代表には銀行の意向に沿う形で一族の縁者が据えられ、実質的な経営権は銀行から派遣された役員たちが握る体制へと変わった。その銀行としては、何としてでも貸付金を回収しようと躍起になっていたようだ。この瞬間、400年続いてきた家業が、事実上、他人の手に渡ったのであった。

 ちなみにそのとき桃谷氏は、東京の大学に通う学生であった。会社を追い出された父からは、「給料がゼロになった」と突然告げられたという。

 「生活は一変しましたが、それでも父は卒業まで学費を出し続けてくれていたのを今でも覚えています」と振り返りつつ、ドラマ「半沢直樹」を引き合いに出し、「晴れた日に傘を貸し、雨の日に取り上げるという、本当にそんな感じでした」と表現した。

 銀行の介入後も、会社の経営状況は好転しなかった。貸付金の早期回収が優先され、土地をはじめとする会社の資産は次々と売却されていった。資産が減り続ける一方で、経営が立て直される気配はない。

 売上の4~5倍にまで膨れ上がった借入を抱えたまま、複数の会社をまとめてファンドへ売却することまで検討されていたという。 【次ページ】なぜ桃谷氏は「倒産寸前」でも入社したのか?
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