- 2026/02/09 掲載
AI時代に大学はいらない? 出席ゼロでも試験合格…「教育崩壊」を防ぐ唯一の道とは(2/2)
【講義の再設計】「知識を得る場」ではない本当の役割
従来、講義は「知識を伝達する場」として理解されてきた。体系化された知識を教授が説明し、学生はそれを理解・記憶し、その成果が試験で確認される。このモデルでは、講義への出席と試験成績は自然に結びついていた。しかし、AIがシラバスや教材を基に要点を整理し、説明や例題を提示できるようになった現在、この前提は崩れつつある。知識の要点を把握して、標準的問題へ対応することは、もはや講義に出席しなくても実現できてしまうからだ。
しかしだからといって、講義が不要になるわけではない。
問題は、講義の役割を知識伝達に限定してきた点にある。講義が本来提供すべきは、出来上がった知識体系の暗記ではなく、知識がどのような前提の下で構造化され、どこに論点があり、どのように問いが立てられてきたかという「思考の枠組み」ではないだろうか。
この理解によれば、必要とされるのは「問いの立て方」や「考え方の型」を共有する講義を、AIの時代に合わせて再定義することだ。
【試験の再設計】試験に「答え」を求めるな…
この再定義に対応して、試験の内容も見直さざるを得ない。従来の試験は、正しい答えを再現できるかどうかを測る仕組みだった。しかし、AIがそれを容易に行えるようになった以上、試験がその能力だけを評価している限り、上で述べたように再定義された講義との結びつきは弱まる。
重要なのは、AIが代替できる能力と、そうでない能力を線引きすることだ。
AIは、要約や整理、典型問題への対応には優れている。他方で、前提を疑い、問いそのものを組み替え、複数の解釈を比較し、不完全な情報の中で判断理由を言語化することにおいては、依然として人間の役割が大きい。
この観点に立った場合、極端な提案だが、答えではなく、問いを出す能力を試す試験にしてはどうだろうか?
将来、AIがハルシネーションの問題を克服すれば、問いさえ適切であれば答えは得られる。そうであれば、人間は問いを作ることに専念すべきだという発想は、論理的に自然なものだ。
これに対して、次のような反論があるかもしれない。それは、「問いを出すだけで良いなら、基礎知識は不要になるのか?」というものだ。
しかし、これは「どんな問いでも、出せさえすれば良い」という誤解に基づいたものだ。必要なのは、「良い問い」を出すことなのである。
実は、この発想は、高度専門領域では、すでに暗黙のうちに共有されている。
研究者は「答え」よりも「問いの立て方」で評価される。政策立案では、「正解」より「問題設定能力」が問われる。経営や監査でも「何を問うべきか」が成果を左右する。
上で述べた提案は、教育評価をこれらの知的実務と同じ地平に引き上げるものだと言える。
「良い問い」は、前提条件を理解していなければ出すことができない。何が既知で、何が未解決かを把握していなければならない。
また、概念間の関係を誤解していれば、正しい問いを立てることはできない。良い問いは、十分な基礎知識がなければ成立しない。つまり、問いを出す能力は答えを理解する能力の上に立ったものなのだ。
【評価の再設計】これが「最大の課題」
以上で述べた提案を実行する際の最大の課題は、問いの深さ、前提の妥当性、問題設定の射程などといった問いの良し悪しを、どう評価するかである。これらは、本質的に定性的であり、単純な採点には向かない。だから、採点の客観性や公平性という課題を伴う。
したがってこの提案は、人数教育、記述評価、複数評価者といった制度改革と不可分であり、簡単な実現は難しい。このような新しいタイプの試験問題を作成し得るかどうかという、教師の側の能力が大きな問題となる。
ただし、現在の制度がそのままでAI時代に対応できないことは明らかだ。
AI時代に問われているのは、「AIを使わせるか、禁止するか」ではない。AIを前提としたとき、なお人間にしか保証できない能力とは何かを明らかにし、それを講義と試験という制度の中でどのように可視化し、評価するかだ。
この問いに答えられない制度は、形式としては残っても、形骸化し、意味を失っていくだろう。
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