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- 2025/12/01 掲載
海浜幕張・船橋の人気高騰は偶然じゃない?千葉を覚醒させた「街作り」の意外な裏側
連載:小林拓矢の鉄道トレンド最前線
1979年山梨県甲府市生まれ。早稲田大学教育学部社会科社会科学専修卒。「東洋経済オンライン」「ITmedia」「マイナビニュース」などに執筆。Yahoo!ニュースエキスパート。単著に『京急 最新の凄い話』(KAWADE夢文庫)、『関東の私鉄沿線格差』(KAWADE夢新書)、『JR中央本線 知らなかった凄い話』(KAWADE夢文庫)など。共著に『関西の鉄道 関東の鉄道 勝ちはどっち?』(新田浩之氏との共著、KAWADE夢文庫)、首都圏鉄道路線研究会『沿線格差』『駅格差』(SB新書)などがある。
驚きの混雑率……総武線は「超過酷な路線」だったワケ
そもそもJR東日本の総武線方面は、人気の高い路線ではなかった。沿線には低地が広がり、ターミナルである両国駅は都心からは離れているほか、通勤ラッシュ時には各駅停車の列車でありながら、混雑率300%越えという、今から思うと過酷な路線であった。その時代、総武線の運営主体は国鉄(1987年以降、現JRグループ)であったため、「沿線開発により住民を増やし、鉄道利用者増加につなげることで売上を伸ばす」という民間鉄道会社のような発想はなかったが、それでもこのエリアは地価は安く、それゆえに多くの人が住みたがるという状況にあった。
しかし、需要の高まりに対して運行本数を増やす余裕は乏しく、慢性的な逼迫状態が続いていた。
今でこそ都心から千葉以遠へ多くの快速列車が直通しているが、当時は事情が異なった。快速は両国発着が中心で、千葉駅を境に運行体系が途切れていた。急行もほぼ両国起終点で、ごく一部が新宿まで延びる程度。特急も存在しなかった。
では、千葉方面から都心へ向かう乗客はどう移動していたのか。当時の主役は「国電(国鉄の通勤電車)」である。木更津や佐倉方面などから来た乗客は千葉で国電に乗り換え、秋葉原を経て山手線・京浜東北線へ接続するのが一般的だった。複雑で負担の大きい乗り換えが日常だったのである。
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