- 2025/08/23 掲載
戦争、復興支えた鉄道=爆撃に耐え、終戦時も運行―自動車普及で一時代に幕
太平洋戦争中、鉄道は全国各地に兵員や軍需物資を輸送する上で最も重要な役割を果たした。車両や線路が爆撃されても懸命な復旧作業で運行を再開。終戦を迎えた80年前のあの日も走り続けた。戦後は引き揚げ者を故郷に送り返し、復興や高度経済成長にも欠かせない存在だったが、自動車の普及に伴って鉄道全盛の時代は幕を下ろした。
◇攻撃の的
「鉄道は絶対的な輸送機関だった」。JR九州の初代社長を務めた石井幸孝さん(92)は、街中を走る自動車がまばらだった戦中、戦後の交通事情をこう振り返る。毎日同じ時刻に鳴る蒸気機関車の汽笛は時計代わりだったと回想し、「汽笛は国民と会話していた」と懐かしそうに語った。
1937年に日中の戦端が開かれると、鉄道は「軍事施設」(石井さん)としての色合いが強まり、軍人や兵器の輸送に力点が置かれ始める。戦禍が本土に及んでからは攻撃の的にされ、運輸省(現国土交通省)の記録によると、戦争中に車両は全体の10%に当たる1万3200両、線路は5%に当たる1600キロが被害を受けた。
東西物流の大動脈、東海道線が寸断されれば戦局の悪化は避けられない。輸送ルートへの攻撃を想定し、建設されたのが静岡県西部の山あいを結ぶ二俣線だった。40年に全線開通し、終戦間際に浜松市が爆撃を受けた時には迂回(うかい)路として物資の運搬を支えた。
◇すし詰め状態
石井さんが東京都内の中学校で軍事教練に明け暮れていた45年、敗戦の色は日増しに濃くなっていった。3月の東京大空襲で大量の焼夷(しょうい)弾が木造家屋の密集地に落とされると、一面が焼け野原に。それでも線路は直ちに修復され、被害を免れた車両だけで運行を再開した。
「命懸けで時刻表通りに走らせる『鉄道屋』の魂があった」と、石井さん。汽笛の音は空襲におびえる人々の不安も和らげたと、先輩鉄道員をたたえた。
戦後は復員兵や引き揚げ者、農村に食料を買い出しに行く人らで超満員だった。大学入学のため、50年代初めに上京した元国鉄職員の長谷川忍さん(91)は「名古屋から急行で6時間、ぎゅうぎゅう詰めで立ちっ放しだった」と証言する。
高度経済成長期に入ると通勤ラッシュが激しさを増した。この頃から、主要駅では「尻押し屋」と呼ばれた係員が車両に入り切らない乗客を無理やり押し込むほどの混雑ぶりだった。しかし、鉄道隆盛の時代は1960年代以降のモータリゼーションで終わりを告げる。
◇衰退期
国鉄は東海道新幹線が開通した64年から慢性的な赤字体質に陥った。人件費が膨らむ一方、運賃の値上げはままならず、収支悪化に拍車が掛かった。国鉄は87年に解体、現在のJR各社に引き継がれた。国鉄に勤めていた菅建彦さん(85)は、「64年が歴史の分岐点だった」と述懐する。
その後、地方路線は衰退の一途をたどる。戦時中に物流を支えた二俣線も国鉄解体に併せて廃線となり、第三セクター「天竜浜名湖鉄道」が継承したものの、苦しい経営が続いた。
近年は人気アニメ映画の「聖地巡礼」効果で収益が持ち直したとはいえ、安泰とは言い難い。沿線の静岡県森町はバスやタクシーが限られ、太田康雄町長(66)は「地域の足を確保するために維持しなければならない」と訴える。
鉄道問題に詳しい立教大の老川慶喜名誉教授(75)は、ローカル線の存廃について「路線網全体で考えることが大事だ」と指摘。路線単体の収支ではなく、観光客らが地域全体にもたらす経済効果も合わせて見極めるべきだと提言している。
【時事通信社】 〔写真説明〕戦後の鉄道史を語るJR九州初代社長の石井幸孝氏=7月25日、東京都中央区 〔写真説明〕混雑する車内に乗客を押し込む国鉄職員=1967年12月、東京都新宿区の国鉄新宿駅 〔写真説明〕1970年、静岡県浜松市の西気賀―寸座駅間を走る国鉄二俣線(天竜浜名湖鉄道提供)
最新ニュースのおすすめコンテンツ
PR
PR
PR