- 2025/12/19 掲載
「石丸現象」の副産物「再生の道」とは何か?“認知バイアス”が生み出す「絵空事」
連載:集団狂気の論理【第3回】
専門は論理学・科学哲学。青山学院大学・お茶の水女子大学・上智大学・多摩大学・東京医療保健大学・東京女子大学・東京大学・日本大学・放送大学・山梨医科大学・立教大学にて兼任講師を歴任。ウエスタンミシガン大学数学科および哲学科卒業後、ミシガン大学大学院哲学研究科修了。
著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『実践・哲学ディベート』(NHK出版新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)、『天才の光と影』(PHP研究所)、『ロジカルコミュニケーション』(フォレスト出版)など多数。
「二元代表制」に対する石丸氏の“認知バイアス”
安芸高田市長時代の石丸 伸二氏の尋常でない行動に関するデータを調べ始めたのだが、あまりにも多岐にわたるため、とてもそのすべてに言及することができない。ただし、「石丸氏に権力を持たせては危険である」という結論については、明快に断定することができる。というのは、石丸氏の引き起こした問題は、基本的に彼の「権威主義的」な志向性に起因しているからである。
すでに本連載で解説した「ポスター裁判」にしても「恫喝裁判」にしても、もし石丸氏が銀行員のままだったら、逆に表沙汰を恐れて示談で済ませるような些細な案件である。ところが、安芸高田市長に就任した石丸氏は、「自分は市長なのだから、自分の要求に対しては、周囲の方が折れるべきだ」と、傲慢不遜に行動した経緯が明らかにされている。
「安芸高田市政刷新ネットワーク」は、石丸市政を振り返って、次のように述べている。
本会は、石丸前市長の大ウソのでっち上げと余りものでたらめな市政に業を煮やして、令和4年4月23日に発足しました。それ以降2年余りにわたって、市民の皆さんに「何が事実なのか、何が問題なのか」を発信し、市政刷新に一定の役割を果たしてきたと思っています。しかし、本会はもとより大半の市民は、どうしようもない憤りを感じてきた日々でした。石丸氏が、安芸高田市長の著書として2024年5月に発行した『覚悟の論理』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)にも目を通してみたが、その内容は飛躍した「認知の歪み」すなわち“認知バイアス”に満ちていて、とても「論理」というタイトルにそぐわない。
自分の意に沿わない議員や記者を悪役に仕立て、自らは正義のヒーローを演じる劇場型個人攻撃を行い、金もうけに走るユーチューバーがその映像を切り抜き動画に編集して流す。それを見た信者が熱狂して前市長を称賛し、一方で議員や記者を誹謗中傷し、中には危害を予告するがごとき攻撃をする。
こうした石丸信者の熱狂に酔った前市長は益々増長し、言いたい放題やりたい放題になっていました。私たちは、故武岡議員がこうした攻撃を受け、心身ともに疲労する中で病気になり、失意にうちに亡くなったことを忘れることができません。
たとえば、地方自治体の市における「二元代表制」とは、「市長」と「市議会議員」の両方を市民が直接選挙で選ぶ制度を指す。市長は予算・条例などを提案し、市議会の審議・議決を受けて、市民へのサービスを提供する。「二元代表制」の目的は、市長と市議会が、共に市民の代表として対等の立場から「健全な議論」を重ね、市の発展に尽くすことにある。
ところが、石丸氏は、「二元代表制においては市長と議会はむしろ『対立すべき』存在だとわかります」「だから市長と議会が対立することは、本来のあるべき姿と考えます」「『市長と議会が仲良くすべき』という意見が的外れなことがわかるでしょう」という珍妙な結論に飛躍している。
石丸氏は、市長を車のアクセル、議会をブレーキに喩えて、互いの権力行使を抑制する「チェック・アンド・バランス」が必要だという。そこまでは理解できるが、そこから「市長と議会がなれ合って、対立構造が正しく機能しなくなると“アクセル踏みっぱなし”の状態になります。とても危険です」と述べている。
しかし、石丸氏の望むとおり、市長と市議会の間に強烈な「対立構造」が機能していた安芸高田市において、石丸市長自身が“アクセル踏みっぱなし”の状態になった事実は、どう説明するつもりなのか? 石丸氏は、自分の例示の矛盾に気づいていないのだろうか?
ここで石丸氏は、市長と市議会が「なれ合う」か「対立する」か、どちらしかないという極端な「白黒論法」に陥っているのである。実際には、市長と市議会は「健全な議論」を行えばよいのだが、彼の思考回路には、その発想が根本的に欠如していることがわかる。
石丸氏は「私の考える理想の政治家は『良いことは良い、悪いことは悪い』をちゃんと貫ける人です」と述べているが、これも極端な「良い」か「悪い」かの「白黒論法」である。政治や倫理の諸問題は、それほど単純に「良い」か「悪い」かに区分できない。
そもそも「白か黒しかない」という思考法は、論理的には完全に間違っている。というのは、碁石のように白石か黒石しか存在しないような特殊な状況を除き、「白」の反対は「黒」ではないし、「黒」の反対は「白」ではないからである。
論理的に正確に言うと、「白」の否定は「白ではない」であり、「黒」の否定は「黒ではない」である。それにもかかわらず、「白か黒しかない」と判断を誤らせてしまう“認知バイアス”を「白黒論法」と呼ぶ。
論理的には「白」と「黒」という2つの命題を組み合わせると、「白であり黒でもある」「白であり黒ではない」「白ではなく黒である」「白でも黒でもない」の4通りの命題が生じる。ここで普段は見過ごされる「白であり黒でもある」と「白でも黒でもない」をどのように解釈するかは、その話題の内容によって異なってくる。
石丸氏の「良」か「悪」という2つの命題を組み合わせると、「良であり悪でもある」「良であり悪ではない」「良ではなく悪である」「良でも悪でもない」の4通りの命題が生じる。ある課題への対策が、一面では「良」でメリットがあるが、別の面では「悪」でデメリットがある場合や、「良」か「悪」かを即座に決められない場合もあるだろう。
与えられた課題に対して、幅広い視点から可能な対策を話し合い、現状における“最適解”を探すことが「健全な議論」の目的である。このコミュニケーション方法の詳細については、拙著『ロジカルコミュニケーション』(フォレスト出版)をご参照いただきたい。 【次ページ】「幸福度」と「差別」に対する石丸氏の“認知バイアス”
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