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  • 2018/03/30 掲載

国内初の本格ダム撤去、「清流復活」を地域振興につなげられるか

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日本三大急流の1つに数えられる熊本県の球磨川で荒瀬ダムの撤去工事が終わった。「みお筋」と呼ばれる本流が60年ぶりに復活し、流域から姿を消していた生き物が戻りつつある。米国では役割を終えたダムの撤去が当たり前になっているが、国内で本格的なダムが撤去されたのは初めて。明治学院大国際学部の熊本一規教授(環境政策)は「地元漁民や住民が河川法を勉強し、ダム撤去を勝ち取った意義は大きい」と評価する。だが、ダムが撤去されても地域の活性化はこれからの課題。復活しつつある清流をどう地域振興に生かすのか、地元の模索が続く。

政治ジャーナリスト 高田 泰(たかだ たい)

政治ジャーナリスト 高田 泰(たかだ たい)

1959年、徳島県生まれ。関西学院大学社会学部卒業。地方新聞社で文化部、地方部、社会部、政経部記者、デスクを歴任したあと、編集委員を務め、吉野川第十堰問題や明石海峡大橋の開通、平成の市町村大合併、年間企画記事、こども新聞、郷土の歴史記事などを担当した。現在は政治ジャーナリストとして活動している。徳島県在住。

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ダムが撤去された現在の荒瀬ダム。本来の豊かな川が戻りつつある
(写真:熊本県企業局提供)

戦後復興期の計画、高度経済成長に一定の貢献

 熊本県企業局によると、荒瀬ダムは球磨川河口から約20キロ上流の熊本県八代市坂本町(旧坂本村)に設けられた重力式コンクリートダムで、堤高25メートル、堤の幅210.8メートル。総貯水容量は1,014万立方メートル、湛水面積は123ヘクタールに及ぶ。

 ダムから下流の藤本発電所まで約600メートルのトンネルで導水、16メートルの落差を利用して発電していた。藤本発電所の年間発電量は約7,468万キロワット時。ダム建設当時は熊本県内の電力需要の16%を賄っていた。

 ダムが計画されたのは、戦後復興期の1951年、熊本県が球磨川に7つのダムと10の発電所を建設するとした球磨川地域総合開発計画を策定したのがきっかけ。当時、北九州工業地帯で深刻な電力不足が続き、熊本県で発電された電力の約40%が送電されていたため、熊本県内の工場は電力不足で操業短縮を余儀なくされていた。

 そこで、熊本県は電力の安定供給と灌漑(かんがい)用水の確保、洪水被害の軽減を目指して荒瀬ダムを建設し、1954年12月から発電を始めた。折から日本経済が戦後の混乱から立ち直り、高度経済成長に入ったころだ。

 旧坂本村では119戸の家屋が移転するなどダム建設で大きな犠牲を払ったが、熊本県はダムで生まれた電力が九州の明るい未来を開くと主張していた。確かにダムの電力は高度成長に一定の貢献を果たしたといえる。しかし、球磨川は異変に襲われる。

ダム建設で水質悪化、漁民らが反対運動

 戦前はアユやウナギ漁で生計を立てる漁師がたくさんおり、旧坂本村のアユ漁師はダム工事に入る前で280人を数えた。サラリーマンの月給が8,000円だった時代に、稚アユを捕って売れば一晩で1万円を稼ぐこともあったという。だが、ダム完成後の1960年には、16人まで減った。アユが急減したからだ。

 アユ以外でも、球磨川はウナギやヨシノボリ、モズクガニなどが豊富に生息していたが、ダム建設後の数年でほとんど姿を消した。しかも、川の流れが遮断されたことでアオコが発生し、かつての清流と程遠い状態になってしまった。

 球磨川は八代海に注ぐ唯一の大型河川。ほぼ閉鎖海域の八代海にとって球磨川から流入する養分や砂が河口部に広がる干潟を支えていた。しかし、ダム建設で供給が絶たれたことにより、干潟が縮小、生き物も減った。

荒瀬ダム撤去までの経過
出来事
1951熊本県が球磨川地域総合開発計画を策定
1953荒瀬ダム建設工事に着工
1954藤本発電所が発電を開始
1955荒瀬ダム竣工
1960建設前に280人いた旧坂本村のアユ漁師が16人に減少
2002旧坂本村川漁師組合の呼びかけで「荒瀬ダムを考える会」が発足
旧坂本村議会がダムの撤去を求める請願を可決
熊本県が2010年から5年間で撤去する方針を表明
2008熊本県が、撤去費用がかかりすぎるとしてダム撤去方針の凍結を表明
「荒瀬ダムを考える会」が「荒瀬ダムの撤去を求める会」に名称を変更
2010熊本県が再び、ダム撤去に方針転換
発電を停止し、ダムゲートを開放
2012ダム撤去工事を開始
2014川底の生物種が10年前の7倍に増加
2018ダムの撤去工事が終了
(出典:熊本県企業局「荒瀬ダム撤去」などから筆者作成)

 旧坂本村はダム建設前からたびたび水害に見舞われていたが、ダム建設後は被害が一段と深刻さを増した。ダム放流時に水位が急激に上昇するようになったためで、ダムにたまったヘドロもいっしょに流され、住民は悪臭被害に悩まされるようになる。高度経済成長で手にした豊かさの代償として、球磨川が犠牲になったわけだ。

 旧坂本村の人口はダム建設後、急激に減少した。建設当時の1万9,000人が2017年4月末で約2割の3,800人に落ち込んでいる。住民はダムの存在に疑問を感じるようになり、2002年に旧坂本村川漁師組合の呼びかけで「荒瀬ダムを考える会」(現荒瀬ダムの撤去を求める会)が発足、村議会がダムの撤去を求める請願を可決した。

【次ページ】米国では日常的に不要なダムを撤去

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