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  • 2021/12/17

瀬戸内寂聴さんが最後に伝えたかった、「私こそは」と思って生きなさい

瀬戸内寂聴さんが2021年11月9日に99歳でこの世を去りました。故人をしのび、その3か月前に行われた66歳年下の秘書、瀬尾まなほさんとの最後の対談を掲載します。8年間にわたって寄り添ってきた、まなほさんが寂聴さんに初めて怒られたのは、「どうせ私なんか」と言ったときでした。滅多に怒らない寂聴さんが「そんなことを言う人はここにはいらない」と怒鳴った理由には、寂聴さんから「今を生きる人」への大切なメッセージがあったのです。

語り手:瀬戸内寂聴、聞き手:瀬尾まなほ

語り手:瀬戸内寂聴、聞き手:瀬尾まなほ

瀬戸内寂聴
1922年、徳島県生まれ。東京女子大学卒業。1956年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞。1961年『田村俊子』で田村俊子賞、1963年『夏の終り』で女流文学賞を受賞。1973年に平泉中尊寺で得度、法名寂聴となる。1992年『花に問え』で谷崎潤一郎賞、1996年『白道』で芸術選奨文部大臣賞、2011年『風景』で泉鏡花文学賞を受賞。1998年『源氏物語』現代語訳を完訳。2006年、文化勲章受章。2018年『ひとり』で星野立子賞を受賞

瀬尾まなほ
1988年、兵庫県生まれ。京都外国語大学英米語学科卒業。卒業と同時に寂庵に就職。2013年3月、長年勤めていた先輩スタッフたちが退職したことから、瀬戸内寂聴の秘書として奮闘の日々が始まる。2017年6月より「まなほの寂庵日記」(共同通信社)連載スタート。15社以上の地方紙にて掲載されている。同年11月に出版したエッセイ『おちゃめに100歳!寂聴さん』(光文社)がベストセラーになる。困難を抱えた若い女性や少女たちを支援する「若草プロジェクト」の理事も務めている

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※本記事は『今を生きるあなたへ』を再構成したものです。

「私なんか」ではなく「私こそは」と思って生きなさい

瀬尾まなほさん(以下、まなほさん):これまで先生にはいろいろなことを言われましたが、初めて怒られたのは、何かのときに私が「どうせ私なんか……」と言ったときです。あのとき先生は、ものすごく怒りましたね。

瀬戸内寂聴さん(以下、寂聴さん):あなたは以前、何か話しているとすぐに「私なんか」と言っていました。何かというと、「私なんか」、「私なんか」……。

まなほさん:「私なんかなんて言葉は使うな。そんなことを言う人はここにはいらない」と、ひどく怒鳴られました。先生はめったに怒らないのに、あのときはどうしてあんなに怒ったのですか?

寂聴さん:まず、その言葉は、あなたを産み、育ててくれた親に対して、とても失礼なことだからです。あなたは普通のレベルよりはちょっと上の美人だし、才能もあると思います。それなのに「どうせ私なんか」と言うのは、逆に思い上がっているのだと思います。あなたを産み、育ててくれた親はもちろん、そうした器量や才能を与えてくれた大いなるものに感謝しなくてはいけません。

 人間はどんな人であれ、生まれて来る値打ちがあるから生まれてきます。自分という人間は、この世に一人しかいません。そのたった一人の自分を認めてあげないで、「どうせ私なんか」などと自分を否定したり、卑下したりするのは、自分をバカにしていることだし、自分に対して失礼なことです。

まなほさん:それは、自分を粗末にしているということですか?

寂聴さん:そうです。粗末にする前に、自分をバカにしています。親は、それぞれにすばらしいものを与えてくれています。それに気がつかないのは、その人がバカなのか、努力をしていないからです。「私なんか」とは、誰であれ言ってはいけません。せっかく生まれてきたのですから、その命を大切にすることです。だから「私なんか」ではなく、「私こそは」と思って生きていくべきです。

まなほさん:「私なんか」という言葉の根底にあるのは、つい自分と他人とを比べてしまうことです。それで、「この人はできるのに、どうして私にはできないのだろう」とか、「この人はモテるのに、私はまったくモテない」とか、そう思って自分に自信が持てなくなります。そんなときに、「どうせ私なんか」と思ったり、「私は生きていても意味がない」と思ってしまったりします。

寂聴さん:ここに相談に来る人の中にも、そういう人がたくさんいますが、それは一番つまらないことです。まず、親が生んでくれただけでも「有り難い」こと、もったいないことだと感謝しなくてはいけません。なぜなら、もし親があなたを産もうと思っても、何かの力が働いて産まれてこなかったことも考えられます。ですから、あなたがここにこうして存在しているということだけでも、本当は簡単なことではないのです。

「当たり前」なことなど、この世に一つもない

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『今を生きるあなたへ』
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まなほさん:「有り難い」というのは、つまり「当たり前ではない」ということですか?

寂聴さん:その通りです。ほとんどの人は、自分が生まれて、ここにいることが当たり前だと思っています。見たり、聞いたり、食べたり、歩いたりすることが当たり前だと思っています。でも、それは当たり前のことではありません。それだけでも、非常に恵まれたことです。ですから、まずはそのことに感謝をしなくてはいけません。この世に当たり前のことなど一つもなく、すべては有り難いことなのです。信仰などというものも、そうした有り難いことに対する感謝の気持ちから生まれてきたのだと思います。

まなほさん:今、こうして生活していることが当たり前、家族がいることが当たり前、そう思うのではなく、すべては有り難いことなのだから感謝をして生きなさいということですね。

寂聴さん:その通りですが、これが簡単にできそうでいて、なかなか難しいことです。それができたら、もう神様か仏様のような存在でしょう。

まなほさん:けれども、今の自分の状況に不満があったり、何かイヤだと思うことがあったりしても、よくよく考えれば帰る家があって、迎えてくれる家族がいて、食べられるものがあって、それなりに健康でと、幸せなことがいっぱいあります。ですから、時々はそういうことを思い返して、感謝することができればすてきだと思います。

寂聴さん:それはそうです。だから仏教にしろ、キリスト教にしろ、神様や仏様を拝むときには、そのことに感謝をするのです。

まなほさん:でも先生は、毎日〆切に追われ執筆ばかりして、お経もあげず、決して熱心なお坊さんだとは言えないと思うのですが、こういうときにはいかにもまじめな尼さんのようなことを言いますね。私、それを聞いていて、時々笑いそうになることがあります。

寂聴さん:こう見えても、私はちゃんと修行をしましたよ。あなたはしていないじゃありませんか。

まなほさん:もちろん、私はしていません。でも、たしかに拝む対象があるだけで、ものごとに感謝する気持ちにもなれると思います。

寂聴さん:それが信仰心の源になります。「宗教などなくてもいい」と言う人がいますが、宗教があるおかげで人やものごとに感謝する気持ちも生まれるし、苦しみから立ち直れる人もいます。信仰心を持つかどうかは人それぞれでしょうが、私はあったほうがいいと思っています。

まなほさん:信仰心、ですか……。若い人でしっかりとした信仰心を持っている人は少ないと思いますが、でも何か困ったときには神社に行って神頼みしたりすることがありますから、それも信仰心の一種かもしれません。「日本人は無宗教だ」とよく言われますが、先生はどう思いますか?

寂聴さん:やはり、無宗教でしょうね。あちこちに神社などがいっぱいありますが、そこへ行って十円か二十円のお賽銭をあげて、「あれをしてくれ」、「これをしてくれ」と勝手なことばかりお願いして、よく言うなと思います。

 本当の宗教心というものは、必ずしも神社やお寺に行かなくてもいいのです。神様や仏様は、あなたのすぐまわりにいます。ですから、その場で手を合わせて、心の中で祈ったら、それで神様や仏様に思いは通じます。でも、人間は弱い存在ですから、何もないと手を合わせられなくて、神様や仏様の像を作って、それに手を合わせたり拝んだりするのです。

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