- 2026/02/12 掲載
いよいよ創設間近の「国家情報局」、日本版「CIA」でも「FBI」でもないと言えるワケ(2/3)
連載:小倉健一の最新ビジネストレンド
新組織に求められる「ある役割」
たとえば、公安調査庁の仕事は、破壊活動防止法に基づいている。その役割は極めて明確だ。「破壊的団体の規制」「処分の請求」「規制措置」だ。一方で、国家情報局に求められる役割は「対外インテリジェンス」である。国境の外側にいる外国政府やテロ組織の意図を探り、日本の国益を守るための情報を集めることだ。つまり、「国内の取り締まり」と「国外の情報収集」という2つは別物だということがわかるだろう。
国内の取り締まりは、法律という明確なルールブックの上で行われる。証拠を集め、法廷で罪を立証し、罰を与えることがゴールだ。しかし、国外の情報収集は違う。相手国の法律を犯してでも情報を得る必要があり、そこには日本の法律も及ばない。求められるのは、正義の鉄槌ではなく、現状分析と未来予測である。取り締まりを目的とする組織が、情報収集を主導すればどうなるか。
目的と手段が混同され、機能不全に陥るか、あるいは国内での監視活動にばかり熱を上げる「内向きな秘密警察」が誕生するかもしれない。
さらに深刻なのが、実務能力の欠如である。鈴木氏の事例で明らかになった現実は、あまりにもお粗末と言うほかない。鈴木氏と公安調査庁の職員は、月一回程度の頻度で、ごく普通の飲食店で会食をしていたという。個室ですらない場所で、重要事項を話していれば、店員やほかの客に聞かれるリスクがあることなど、子供でもわかる。さらに、経費精算のための会計書類に協力者の名前が記載されていたり、作成された報告書から個人が特定できる情報が十分に消されていなかったりした疑いもある。公安調査庁は、こうした「トレードクラフト」と呼ばれるスパイ技術の基本すら習得できていない。
インテリジェンス機関の「あるべき姿」
では、本来あるべきインテリジェンス機関の姿とはどのようなものか。ここで、ジュネーブ軍事治安部門民主的統制センター(DCAF)が2003年に発表した論文『諜報活動の実践と民主的監視-実務家による視点』を参照したい。この論文は、冷戦後の東欧諸国などが、いかにして独裁的な秘密警察を解体し、民主的な情報機関へと移行すべきかを論じた実務的なガイドラインである。その中で、国内の治安維持と国外の情報収集を混同することの危険性について、次のように述べられている。
「歴史的に、民主主義国家は、国内の安全保障と国外の安全保障の明確な区別、したがって国内の諜報機関と国外の諜報機関の分割を維持しようと努めてきた。(中略)憲法上の民主主義の決定的な特徴の一つは、国外の諜報機関の役割、およびそれらに特有の活動方法を、法執行の国内問題や国の政治生活において制限することであった。これはまさに、国外の諜報活動の実践が国内の諜報活動の法に基づく規範を汚染する危険性があるからである」
「CIA」と「FBI」が併存している納得理由
この指摘は、現在の日本が直面している状況にそのまま当てはまる。国内の法執行を補助するために作られた組織が、国外の諜報活動まで担おうとしている。あるいは、国外諜報の看板を掲げながら、その実態は国内の監視強化に使われるかもしれない。DCAFの論文は、そうした「汚染」の危険性を警告しているのである。
国外向けの手段は、往にして非合法的であり、欺瞞(ぎまん)や盗聴といった荒っぽい手法が含まれる。それを国内の市民に向けてはならない。
だからこそ、多くの民主主義国家では、中央情報局(CIA)(国外)と連邦捜査局(FBI)(国内)、MI6(国外)とMI5(国内)のように、組織を厳格に分けているのだ。
公安調査庁が主導権を握るということは、この境界線を曖昧にし、国内の規制論理で国外活動を行ったり、逆に国外活動の論理で国内を監視したりする怪物を作り出すことにつながりかねない。 【次ページ】「秘密保全」が超重要と言えるワケ
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