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- 2026/05/07 掲載
安田猛氏が語る「ドラゴンマガジン秘話」と、1990年代の“ライトノベル”ブーム&凋落
東京大学大学院修了(社会学専攻)。カナダのMcGill大学MBA修了。リクルートスタッフィング、DeNA、デロイトトーマツコンサルティングを経て、バンダイナムコスタジオでカナダ、マレーシアにてゲーム開発会社・アート会社を新規設立。2016年からブシロードインターナショナル社長としてシンガポールに駐在し、日本コンテンツ(カードゲーム、アニメ、ゲーム、プロレス、音楽、イベント)の海外展開を担当する。早稲田大学ビジネススクール非常勤講師、シンガポール南洋工科大学非常勤講師も歴任。2021年7月にエンタメの経済圏創出と再現性を追求する株式会社Re entertainmentを設立し、大学での研究と経営コンサルティングを行っている。『推しエコノミー「仮想一等地」が変えるエンタメの未来』(日経BP)、『オタク経済圏創世記』(日経BP)、『ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか』(PHPビジネス新書)など著書多数。
安田猛(やすだ・たけし)氏
第1回はこちら(この記事は第2回です)
少女マンガ誌『Asuka』での編集経験を経て、安田猛氏は次に富士見書房の新しい試みに関わっていく。そこで担うことになるのが、のちにライトノベル文化の礎となる『ドラゴンマガジン』創刊と、若い読者に向けた新しい小説フォーマットの開発だった。
ライトノベルの始祖『ドラゴンマガジン』、角川がラノベを生んだ背景
──1988年に発刊されるドラゴンマガジンの秘話をお聞きしたいです。1986年に富士見書房(角川書店の子会社)に入社し、SF・ファンタジーに詳しかった小川洋さんが呼ばれ、最初書籍をベースでしようとしたら「こういうジャンルは新人が重要。新人を獲得する時には新人賞を作らなきゃいけない。新人賞を作るには雑誌が必要だ。雑誌を作れ」と角川歴彦さんに言われ、雑誌になった、というお話をお聞きしたことがあります(注1)。安田猛(以下、安田)氏:その当時の文芸誌は、どこもめちゃめちゃページが分厚かった。300~400ページくらいあって、とにかくたくさんの作家に書いてもらう。なぜなら雑誌で連載していれば、定期的に原稿がたまって単行本が出しやすいというのもあるけれど、それ以上に「原稿料が出せる」から作家を食べさせていけるわけですよ。なるべく多くの作家を育てようという気概がありましたね。
──名前も特殊ですよね。角川春樹さんに持っていったら、「いいんじゃないか。雑誌名は『ファンタジア』がいいと思うんだ」…今度はそれを角川歴彦さんに見てもらったら、「こんなんじゃダメだ。版型はA4版、雑誌名は『ドラゴン』がいい」と言われて、「『えー、カッコ悪い(注2)』と思う面もあったんですけど」と安田さんが語っています。
安田氏:文芸誌だとお堅くて若者たちに受け入れられにくい、その時に皆で考えていたのが「情報誌ではなくコンテンツ開発雑誌だ」ということなんです。小説、マンガ、ゲームを自分たちで、誌面で開発して発信していくんだ、とね。高校生のころからやってきた同人活動の発想そのままですよね(笑)。
──アニメックでアルバイト、副編集長など経験が長いとは言っても20代半ばの“若手”の安田さんが呼ばれたのはどういった理由があるのでしょうか?
安田氏:1987年、私が25歳の時ですね。「ジュブナイル向けの小説雑誌を作りたい」と小川洋さんから声をかけられました。もう同人サークルやアニメ誌の時代から雑誌を作ってきたので、台割も切れるし、刊行スケジュールも立てられる。イラストレーターやマンガ家の手配もできる、というので重宝されました。
出版業界は好景気で、新興の角川書店では次々と雑誌が立ち上がっていた時代ですから、人手不足で若手でもちょっと経験がある人間だったらチャンスがもらえたんじゃないかと思います。
──雑誌作りはどうやって進むんですか? 最初は「『獅子王』(朝日ソノラマのSF・ファンタジー小説誌、1985~1992)を参考に小説連載1回分のフォーマットを作り、企画数を立てた」と聞きます。
安田氏:掲載小説の基本フォーマットを作っていくところからですね。他誌と比べて連載する原稿用紙の枚数を減らしました。400字×30~40枚でフォーマットを作って、短めにまとめるようにしていきました。普通の連載小説は倍の70枚くらい、でもそれだと中学生や高校生が毎月、雑誌を読み切るのは大変です。彼らに「読み切る達成感」を持たせたかった。文章もセリフ劇っぽい形にして。
毎月の短い連載ページで起承転結をつけさせるというやり方は、脚本作りに近いですね。それでスピード感があって、テンポも良く書かれていて、読みやすいと読者アンケートも上位に上がってきます。作家自身も学習するんですよ、「テンポ良くスピード感をあげることが、価値をあげることだ」と。読みにくい状況描写やキャラクター造形は、挿絵に補完させて、更に読みやすさを追求していきました。
作者の印税は? 最初期の「ラノベ制作工程」の裏側
──まさに『コンプティーク』がやっていた『ロードス島戦記』のリプレイ連載ですね。ラノベとしては挿絵キャラクターも特徴的ですよね。安田氏:小説と挿絵の共同作業で、現在のラノベの原型ができあがっていきます。当初問題になったのはこの「挿絵の印税」です。“単なる絵に印税を出すなんてもってのほか”だという上層部の反対意見も多かった。
でも単行本1冊に10枚も入っている挿絵やカラーで表紙まわりも描いてもらっていて、キャラクターデザインや美術設定も作ってもらっているのに、著作性をもたせないというのは本当に良いのかという議論になりました。
「挿絵に原稿料を渡してバイバイというわけにはいかんでしょ」と最終的に印税を出すことに決めたのは小川洋さんです。あれはラノベ業界がゲームチェンジする瞬間だったと思います。
──すごい話です。“作家のもの”から“作家とイラストレーターの共同著作物”のようになるわけですね。戦略的にラノベが生まれたというよりは、読者の視点で新しいものを追及したら会話劇・短文・挿絵など小説×マンガのキメラなものができたということですね。
安田氏:「小説の面白さを分かってもらいたい」という気持ちが最初からありました。当時の文芸って本当に難解で、単行本1冊の中でセリフがほとんどなかったりする。それで子供たちに刺さるはずもない。
角川歴彦さんからもいろいろなアイデアがあって、小説を入れよう、マンガを入れよう、フィギュアも作ってみよう、アイドルにコスプレもさせようと、てんこもり。いろいろな意見を聞いているうちに『ドラゴンマガジン』はあんな感じになりました(笑)。
──「小説、マンガ、ゲーム、アニメを分け隔てなく、相互乗り入れ的に扱っている(注3)」というキメラ的な雑誌になりました。表紙がそもそも3次元のコスプレ、というのはどういう発想だったんですか?
安田氏:きっかけは「表紙はアイドルにジオラマを着せるんだ」という角川歴彦さんの言葉でしたね(笑)。それで、グラビア雑誌の“アイドルと水着”をモチーフに表紙、巻頭特集でSF・ファンタジーのコスプレをさせることが決まりました。コスチュームデザインは『ドラゴンマガジン』のスーパーバイザーをしていただいたマルチデザイナー&監督の出渕裕さん(1958~『ガンダム』『パトレイバー』『スーパー戦隊シリーズ』のデザイナー、『ロードス島戦記』のイラストレーター、『宇宙戦艦ヤマト2199』の総監督)です。
でもコスプレ衣装が売っている時代じゃない。どうやって衣装を用意しようかと考えた時に、実はうちの母親が洋裁店をやっていたんです。「こういうものを作れないか」と泣きついたら母が苦労しながら作ってくれました。
出渕裕さんが連載していたマンガ『機神幻想ルーンマスカー』でも海洋堂さんと一緒にフィギュアやジオラマを作って特集を組むなど、どんどん3次元の展開も増えていく時期でしたね。
──まさか安田さんのお母さんがコスプレの生みの親とは(笑)。ただ最初から受け入れられたとは言いにくかったのではないかと。初版10万部刷って、40%が返本された、と聞きます(注4)。
安田氏:本当に60%も売れたのかなあ(笑)。自分の感覚では“10万部を刷る”というのはありえなくて、絶対そんなに売れないと思っていました。でも当時の営業部がそう決めてくれたこと自体はうれしかった。
振り返るとそこに打算とか確信があったとかじゃなくて、“雑誌を出したことがなかったから”に尽きると思います。『ホビージャパン』がそのくらい売れていると聞いたから、とかそんな根拠じゃないかと。誰も相場に詳しくなかった新興の富士見書房だったから10万部に「なっちゃった」のではないかと思いますよ。
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