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- 2011/09/12 掲載
【9.11から10年】ネット社会で問われる真のコミュニケーション能力とは:篠崎彰彦教授のインフォメーション・エコノミー(34)
米国同時多発テロから10年経って変わったネット社会
ネットをどう活かすかは「人間」次第
昨日で2001年9月11日の米国同時多発テロ事件からちょうど10年が過ぎた。米国務省が先月発表した報告書によると、2010年には世界72カ国で1万1604件のテロが発生し、1万3186人が死亡したという(注1)。今年7月には、平和で寛容な国のノルウェーで、爆弾と乱射の同時テロ事件も起きた。こうした凄惨な出来事は人々の心と世相に暗い影を落とすものだ。10年前の同時テロ事件で、ハイジャックされたボストン発の民間航空機がマンハッタン南端のワールドトレードセンターに突入し、巨大なビル群が崩壊していく恐怖の映像は今も多くの人々の脳裏に焼きついているだろう。
事件直後の報道によれば、世界各地に散在するテロ・グループが、豊富な資金力を持つ中心人物にネット経由でさまざまなテロ計画を提案し、実効性や衝撃度を勘案した上で、遂行能力の高い実働部隊が編成されたという。これではまるで、IT革新の原動力となったシリコンバレー・モデルと見紛うほどだ。
真偽のほどは定かでないが、こうした話が虚構とは思えない時代を迎えているのは間違いない。3年前に秋葉原で起きた通り魔事件でも、2カ月前のノルウェーの事件でも、犯人は極端に偏った考えをネット上に書き込んでいたようだ。こうした事件が起きるたびに、改めてITの進歩と急速な普及が現代社会にもたらす光と影を考えずにはいられない。
ネットをどう活かすかは結局のところ「人間」次第だ。9.11から10年の節目に当たる今回は、特別編として、個人的な経験談も交えながら、ネット社会で真に求められる人間のコミュニケーション能力とは何かを考えてみたい。
ITの進歩で乖離しがちな心と体
自然界に孤立して放り出されたら、か弱い存在に過ぎない人間が、地球上でこれほど豊かに繁栄してきたのは、頭脳の発達で「技術」と「制度」という「人工物」を作り出し、互いに協力し支えあう社会生活を築いてきたからだ。ちなみに、経済でかなめとなる「貨幣」は、技術と制度の両面を持つ「人工物」の象徴といえる。技術であれ制度であれ、「人工物」を知性と理性で巧みに活用すれば、私たちの暮らしは便利になり、社会は豊かになるだろう。だが、理性を失い感情のままに乱用すれば、技術は人を傷つけ、制度は人を抑圧し、貨幣は人を狂わせる。この点では、ITもナイフも本質的には違いがない。
連載の第26回で解説したように、10年前の同時多発テロは、ITバブル崩壊と政権交代で潮目が変わりつつあった米国を大きく揺るがした。それは政治や経済の表舞台を一変させ、当然ながらグローバル社会の進路にも深刻な影響を与えたが、そればかりでなく、より身近な日常生活の隅々にもさまざまな変化をもたらした。
そのひとつが、ITが格段に進歩し広く普及したネット社会にあって、リアルな人間関係を構築することの意味を改めて問いかけたことだ。
筆者は当時ボストン郊外で暮らしていたが、その数年前にはニューヨークで仕事をしていたこともあり、テロの標的となったビルはたびたび訪れたことのあるなじみの場所だった。それだけに、事件は衝撃だったが、数日するうちにある種の違和感を覚えはじめた。
というのも、事件直後から、現地の報道番組や新聞にも増して、ネットにアクセスし、日本の報道機関のサイトを経由して詳細な情報を入手していたからだ。こうした状況に浸りきっていると、身近に起きた筈のテロ事件を、まるで画面の向こう側からみているかのような錯覚に陥ってしまう。
リアルな自分は、テロ事件で緊迫する米国の東海岸に存在しているのに、情報が渦巻く頭の中は、まるで日本のお茶の間にいる感覚で、あたかも心と体が乖離しているかのような違和感だった。
【次ページ】モジュール化する社会
注1 U.S. Department of State (2011)参照。
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