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- 2019/03/28 掲載
今、能を上演することに意味はあるのか
650年の歴史を継ぐ能楽師 高林白牛口二に問う「2030年予測」
「伝統を守る」ということ
能は650年という長い歴史を持つ伝統芸能だが、その後江戸時代に登場した歌舞伎などに比べると、認知度は低い。高林氏は「今回の受賞が、より多くの人に謡を聴いていただくきっかけになれば」と能の未来に期待を寄せるものの、危機感も抱いている。「伝統芸能にとって最も大切なことは、『伝統を守ること』です。つまり『同じことがずっと続いていること』が大事なのです。しかし、国や関係省庁からは『現代に合わせるためにどういう試みをしていますか?』と聞かれるばかりです。本当に必要なのは、能を現代に合わせる活動を支援することではなく、能を前時代から引き継いだ通りに次の世代に引き継ぐための活動を支援することです」(高林氏)
能とは、催花賞とは
奈良時代に中国から渡来した散楽が猿楽に進化し、田楽という芸能の影響を受け、室町時代に観阿弥によって「能」として基礎が形成された。その後、観阿弥の息子である世阿弥によって芸能として洗練された。
「能は分業で成り立っています。まず、3種類の役を演じる能楽師がいます。演目の中心的な役割を演じ、主演に近い機能を果たす『シテ』、演目のストーリーテラーのような役割の『ワキ』、その他の役を演じる『アイ狂言』です。そのほかに、音楽を演奏する『囃子方』と呼ばれる人がいます。囃子に使われる楽器は笛、小鼓、大鼓、太鼓の4種類です。シテを演じる人々は『シテ方』と呼ばれます。シテ方には5つの流派があります。観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流です。私はこの中で喜多流に属します」(高林氏)
こうした能の世界で最高の栄誉の1つとされているのが野上記念法政大学能楽研究所から授与される「催花賞」だ。京都で喜多流を継承した高林氏は80歳を迎えた2016年に能の舞台から引退したものの、能の演目を1人で謡い通す活動を続け、磨き抜かれた芸を継続的に伝えていることが評価され、第28回催花賞を受賞した。
能にAIもロボットもいらない
技術がめざましく発達している今、「AIやロボットが人間の仕事を奪う」という声がたびたび聞こえる。しかしだからこそ、AIやロボットにはできない、「人間にしかできないこと」「人間にしか生み出せない価値」が問われている。こうした問いを能に照らし合わせると、「ロボットに能を舞わせてはどうか」「過去の名人の芸をテクノロジーで現在に蘇らせればよいのではないか」といった疑問が生まれる。実際、そうした試みも行われている。高林氏は以下のように考える。
「能は人間がつくるものであり、二度と同じものができないからこそ意味があるのです。たしかにAIやロボットを使えば、同じことを何度も再現できるかもしれません。しかし、それは『死んでいる』ということです。演者が人間であり、生きているからこそ変化があります。逆にいえば、演者が人間でいる限り、能の質は上がることもあれば下がることもある。でもだからこそ、明日の能は今日の能より良いかもしれない。それが『生きている』ということです。たとえ名人の芸を再現しても、それが再現である限り、もうそれ以上良くなることはない。死んでいるのです」(高林氏)
現代の人間が能を上演する意味
では、「前の時代から伝えられたものをできる限りそのまま次世代に伝える」ことで「現代に意識的に合わせる変化」を否定し、「AIやロボットに頼って芸の質を固定化しない」ことで「変化の停止」を拒むなら、現代の人間が能を上演することにどんな意味があるのだろうか。もちろん「前向きな現状維持」を「時代遅れ」と捉え、新しい能をつくろうとする人々もいる。
「そういう人たちは伝統の意味を分かっていません。たとえば能を元に、新しい芸能ジャンルを始めるのであれば、それはそれで素晴らしいことです。ですが、能の演じ方を意識的に変えておきながら、それを『能』と呼ぶのは『伝統の破壊』です」(高林氏)
能を特徴づける「面」と「型」
「主役が最初から仮面をつけているというのは他の舞台芸術ではあまり見られません。また、能面を着けていたら演者の表情が見られませんが、能面を着けないときであっても、能楽師は舞台上で表情を表に出しません。また、身のこなしにも決まりがあり、演者は決められた『型』といわれる動きをします。顔で表情を出さないのと同じように、能楽師が自分で考えオリジナルの動きをすることもありません。そのため初めて能を見た人は戸惑うと思いますが、そこに能独特の雰囲気があるのです」(高林氏)
【次ページ】間違いだらけの「能のイメージ」
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