- 会員限定
- 2026/07/31 07:10 掲載
漫画家いがらしゆみこが解説、『なかよし』『りぼん』黄金期の“リアルな業界の裏側”
付録戦争、専属制度、収入──全盛期支えた少女漫画制作の実態
東京大学大学院修了(社会学専攻)。カナダのMcGill大学MBA修了。リクルートスタッフィング、DeNA、デロイトトーマツコンサルティングを経て、バンダイナムコスタジオでカナダ、マレーシアにてゲーム開発会社・アート会社を新規設立。2016年からブシロードインターナショナル社長としてシンガポールに駐在し、日本コンテンツ(カードゲーム、アニメ、ゲーム、プロレス、音楽、イベント)の海外展開を担当する。早稲田大学ビジネススクール非常勤講師、シンガポール南洋工科大学非常勤講師も歴任。2021年7月にエンタメの経済圏創出と再現性を追求する株式会社Re entertainmentを設立し、大学での研究と経営コンサルティングを行っている。『推しエコノミー「仮想一等地」が変えるエンタメの未来』(日経BP)、『オタク経済圏創世記』(日経BP)、『ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか』(PHPビジネス新書)など著書多数。
第1回はこちら(この記事は第2回です)
海外読者も気になる…少女漫画に“金髪・青い目”が多いワケ
──絵を描くということは、幼少期からずっとやってこられたと思うのですが、漫画の「お話づくり」という点に関しては、どういうところで学んだのでしょうか?いがらしゆみこ(以下、いがらし)氏:特別に練習していたという意識はないんですが、子どもの頃から好きだったテレビ番組のストーリーを、1話ごとに文章で書き留める習慣があったんです。もともと感想文を書くのが好きだったこともあって、自然と続けていましたね。
それと、中学校では図書委員をやっていて、他の生徒が1回2冊のところを委員の特権を濫用して1回5冊も6冊も借りて本を読んでいましたね。児童文学系が大好きでした。ソ連の昔話とかね。
──なぜ、作風として、欧米風の絵やキャラクターを描くようになったのでしょうか? 1970年代の少女漫画はとにかく欧州が舞台になっているものが多い印象です。
いがらし氏:海外のイベントに行くと、よく聞かれるんですよ。「どうして日本の少女漫画には、青い目で金髪のキャラクターが多いんですか?」って。自分でもはっきりした理由があるわけではなくて、無意識に描いていた部分が大きいんです。
あえて理由を考えると、日本の家庭には昔から人形がたくさんあって、私も博多人形や木彫りの熊、ひな人形などをよく目にしていました。そうした人形を模写することはあっても、「遊ぶ」となると、和風の人形は少し扱いにくいところがあったんですね。
そこに、バービー人形(1959年、日本発売は1962年)やリカちゃん(1966年)が登場して、洋服の着せ替えもできるし、とても身近で魅力的な存在になりました。そうした影響で、「かわいい女の子」を描くときに、自然と洋風のイメージが広がっていったのではないかと思います。少なくとも私は、お人形遊びのような感覚から、あのキャラや漫画を描いてましたね。
──それは面白いですね。玩具のカルチャーが洋風の顔への違和感をなくしていったのかもしれませんね。萩尾望都さん(1949年生まれ、1970年代以降に小学館『別冊少女コミック』など)は、「貧しかった当時の日本が嫌で、どこか見知らぬ世界を描きたかった」と語っていますよね。いがらしさんは、デビュー自体は集英社(『りぼん』系)ですが、講談社で専属になるのはいつ頃からなのでしょうか?
いがらし氏:1970年に専属契約となりました。その後、『ばんざい先生』(1972年、『なかよし』掲載)や『ひとつ屋根の歌』(1973年、『なかよし』掲載)などを描くようになりました。
──どのくらいから「売れた」と思うようになりました?漫画家として安定できるか不安な時期はなかったですか?
いがらし氏:『なかよし』で表紙を2年間描かせていただいた頃ですね。私の場合は比較的順調に仕事が進んでいったので、不安はあまりありませんでした。
関係近そうだが…伝説「大泉サロン」と交流が少なかった理由
──赤塚不二夫さん(1935~2008年、『天才バカボン』など)が最初に海外に行かれて、その後、大泉サロンのメンバーのうち、2人も1971年頃に渡航されていますよね。いがらし氏:私が初めて海外に行ったのは1971年から1972年頃で、里中満智子さん(1948年生まれ、1960年代末から『なかよし』など)と一緒でした。講談社のイラスト投稿で入選した読者5人と、私たち作家が同行してハワイへ行ったのが、人生初の海外旅行です。
──ちょうど同じ頃、1971年にはいわゆる「大泉サロン」(東京都練馬区大泉にあった若手少女漫画家たちの交流拠点)に集っていた萩尾さん、竹宮惠子さん(1950年生まれ、『風と木の詩』など)、増山法恵さん、山岸凉子さん(1947年生まれ、『アラベスク』など)が、4人で約45日間のヨーロッパ旅行に出かけています。この体験を契機に、彼女たちを中心としてヨーロッパを舞台にした作品が数多く生まれていきました。同じく北海道出身のささやななえこさん(1950年生まれ、『おかめはちもく』など)も、大泉サロン関連の書籍によく登場しますね。
いがらし氏:実は、大泉サロンの方たちとはあまり交流がなかったんです。ささやさんは本当にストーリーテラーで、電話で話していると、いつ切ればいいのかわからないくらい面白い話が次々と出てきて、いつも良い気分転換になっていました。とても交友関係が広い方でしたね。でも、私はその集まりに行ったことはないんです。
いま思い返しても、少女漫画家の村って、実はかなり拡がりのあるものだったんですよね。私もいまお名前が挙がった漫画家さんはほとんどお会いしています。
当時の「女性漫画家の革命」といわれる動きにしても、私はポヨーッと生きていたので(笑)あまり実感がなかったです。
──なるほど。「花の(昭和)24年組」(1949年前後生まれの少女漫画家たちを指す)という枠組みで語られる際に、いがらし先生の名前が入っていないのは、たしかに少し不思議に感じますね。
いがらし氏:講談社の専属作家に早めになったことが大きかったかもしれません。当時の出版社は、いわばヘッドハンティングのように有望な作家を囲い込み、自社の雑誌で専属的に活動させる傾向が強かったんです。
でもそうなると集英社や小学館など、他社のパーティにはなかなか行きづらくなりますし、私も専属化してからは講談社や同じ『なかよし』の作家さん以外とは、ちょっとずつ疎遠になってしまいました。忙しくて交流する暇もなかった、というのもありますが…。
編集者はみんな大人で、彼らの指示に従っていれば仕事が途切れることはありませんでした。原稿を頑張って描いているとケーキ買ってきてくれたりして、「ここまで進んでるなら大丈夫だから、ちょっとみんなと飲もうか」と近所のスナックとか、大人っぽい場所に連れて行ってもらったりと、いろんな経験させてもらいました。
税務署も動揺? 21歳いがらし氏の「当時リアルな収入事情」
──講談社は里中満智子さん、大和和紀さんと、いがらしゆみこさんで、どんどん大きなものになっていきます。集英社の本宮さんも月2万程度からスタートしたという話を聞いたことがあります…。
今すぐビジネス+IT会員に
ご登録ください。
すべて無料!今日から使える、
仕事に役立つ情報満載!
-
ここでしか見られない
2万本超のオリジナル記事・動画・資料が見放題!
-
完全無料
登録料・月額料なし、完全無料で使い放題!
-
トレンドを聞いて学ぶ
年間1000本超の厳選セミナーに参加し放題!
-
興味関心のみ厳選
トピック(タグ)をフォローして自動収集!
コンテンツ・エンタメ・文化芸能・スポーツのおすすめコンテンツ
コンテンツ・エンタメ・文化芸能・スポーツの関連コンテンツ
PR
PR
PR