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- 2023/12/02 掲載
投資の神様・バフェットの「相棒」が貫いた、人生をより良くする「4つの信条」
連載:企業立志伝
成績優秀でも教師にとって“最も扱いにくい生徒”
チャーリー・マンガー氏は1924年、弁護士の父アルフレッド・C・マンガーと母フローレンスの長男としてバフェット氏(1930年生まれ)と同じネブラスカ州オマハに生まれています。祖父も父親も法律家という一家でした。ダンディー初等学校を経て進学校のセントラル高校へ進んだマンガー氏は、成績が優秀で本を読むのが大好きでした。クリスマスプレゼントとして毎年、数冊ずつ本を貰い、その本はクリスマスの夜までに読み終えるほどの読書好きで、マンガー氏はのちに「私は教室の中ではなくて本の中で、自然と高尚な知識人たちに会っていたのです」(『投資参謀マンガー』p71)と振り返っています。
しかし、優等生とは言っても、教師にとっては「最も扱いにくい生徒の1人」であり、教師との口論もいとわないほど独立心旺盛だったとも言われています。1929年の大恐慌は米国に暮らす多くの家族を困窮に追いやっていますが、マンガー氏の一族は結束して苦境を乗り越えます。マンガー氏は当時としては比較的恵まれた生活を送っていますが、少年時代からできる限りアルバイトをするようにしていました。
バフェット氏の祖父の店でアルバイトをしていた少年時代
アルバイト先の1つにバフェット氏の祖父アーネスト氏が営む食料品店バフェット・アンド・サンがありました。アーネスト氏は厳しい雇い主として知られ、しばしば店の手伝いをさせられた孫のバフェット氏が「奴隷の身分になったとしか思えなかった」(『スノーボール』上p124)と振り返るほどの人物でした。マンガー氏自身も少年時代、毎週土曜日に12時間「奴隷のように」働いていますが、受け取るのはたった2ドルでした。こう振り返っています。
「(店での)経験から、私だけでなくウォーレンも含めた若い従業員たちの多くが、もっと楽な職を探すと同時に、その仕事の問題点探しをするようになるきっかけになったんです」(『投資参謀マンガー』p79)
1941年、マンガー氏はミシガン大学に進み、数学を専攻します。しかし、第二次世界大戦の勃発に伴い、19歳になったマンガー氏は軍に入隊。試験により少尉に昇進したマンガー氏はニューメキシコ大学、そしてカリフォルニア工科大学に派遣され、気象予報官になるための勉強をすることになります。
その後、アラスカに赴任しますが、後方勤務であり、前線に行くことはありませんでした。当時、軍隊ではポーカーが流行していましたが、マンガー氏はポーカーから後の投資につながる教訓を学んでいます。こう語っています。
「チャンスは必ず来るけれど、そう頻繁にあるわけじゃない。巡ってきたチャンスは必ずつかみ取らなきゃダメなんだ」【次ページ】弁護士として成功、バフェット氏が「誰しも見習うべき」と評した選択(『投資参謀マンガー』p88)
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