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  • 2019/07/29 掲載

54年前 東京五輪を支えた「ホテルニューオータニ」生みの親に学ぶ「2つの心得」

連載:企業立志伝

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今からおよそ1年後の2020年7月24日から、東京で2度目の五輪が開催されます。これに合わせて東京ではいくつものホテルが建設されていますが、今から54年前、アジア初の五輪が東京で開かれるにあたり、ホテル不足を解消すべく誕生したのが「老舗ホテル御三家」の1つ「ホテルニューオータニ」です。その工期はなんと、わずか1年半余り。それを実現にしたのはかつて世間から「相撲取り出身で、読み書きも満足にできない成り上がり」と揶揄された大谷米太郎氏(当時・大谷重工業社長)でした。その波乱に満ちた人生を見ていくことにします。

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

1956年広島県生まれ。経済・経営ジャーナリスト。慶應義塾大学卒。業界紙記者を経てフリージャーナリストとして独立。トヨタからアップル、グーグルまで、業界を問わず幅広い取材経験を持ち、企業風土や働き方、人材育成から投資まで、鋭い論旨を展開することで定評がある。主な著書に『世界最高峰CEO 43人の問題解決術』(KADOKAWA)『難局に打ち勝った100人に学ぶ 乗り越えた人の言葉』(KADOKAWA)『ウォーレン・バフェット 巨富を生み出す7つの法則』(朝日新聞出版)『「ものづくりの現場」の名語録』(PHP文庫)『大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ』(ビジネス+IT BOOKS)などがある。

大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ (ビジネス+IT BOOKS)
・著者:桑原 晃弥
・定価:800円 (税抜)
・出版社: SBクリエイティブ
・ASIN:B07F62BVH9
・発売日:2018年7月2日

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1964年 東京五輪の観客を迎えた「ホテルニューオータニ」生みの親の生涯に迫る
(写真:毎日新聞社/アフロ)


31歳、20銭を握りしめ東京へ

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1941年頃、雑誌を読む実業家大谷米太郎氏
(写真:Kodansha/アフロ)

 大谷氏は1881年7月、富山県小矢部市水落集落で父・次兵衛、母・いとの長男(弟1人、妹4人の6人兄弟)として生まれています。

 家は小作農であり、家族も8人と多かったことから、朝は早く起きてよその家の農家奉公に出て、冬は酒造りの家に奉公に出るという生活を送っていたようです。そのため小学校にもほとんど通うことはできなかったといいます。

 食べるものも、本来なら鶏の餌になるような「クズ米を食べているきわめて貧乏な暮らし」(『私の履歴書』p75)でしたが、幸いにも体は大きく力も人並み以上だったため、夏から秋にかけては、村相撲の大会や力比べの大会に出ては優勝して少しの賞品を手にするのが唯一の楽しみだったといいます。


 31歳になった大谷氏は「わが家の財産は減りもしなければ、増えもしない」(『私の履歴書』p78)状況を何とか打破しようと、「東京に行って金を儲けようと思っています」(『私の履歴書』p79)とその決意を打ち明けます。

 東京に行ったからといって頼る人はいませんし、何のあてもありませんでした。それでもお金を残すためには東京に行くしかないと考えた大谷氏は、母親から渡されたわずかのお金とたくさんの握り飯を持って上京したそうです。

 富山から上野までの切符を買うと、手元に残ったのはわずかに20銭、宿に泊まれば一夜でなくなるほどの少額でした。1911年のことです。

 ところが、東京で働くためには保証人が必要でした。仕方なく保証人がいらない荷揚げの仕事についた大谷氏ですが、幸い大谷氏は体も大きく力自慢です。普通の作業員の倍の荷物を運ぶ大谷氏を周りの人は「まるで弁慶だ」(『私の履歴書』p86)とはやし立て、60日間働いて29円のお金を貯めることができたといいます。

 以来、好んで重労働を選び励んだ大谷氏ですが、ある日、日本の大相撲がアメリカへの巡業を予定していると知り、以下のように考えたそうです。

「相撲取りになってアメリカに渡り、向こうで相撲をやめて、そのままアメリカで働こう」(『私の履歴書』p90)

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(Photo/Getty Images)
 アメリカに行けば、日本の何倍もの金儲けができると考えてのことでした。さっそく、富山で村相撲をとったことのある力士の山田川を稲川部屋に訪ねた大谷氏は相撲取りとなり、鷲尾嶽というしこ名をもらいました。

 やがて大谷氏はもう一場所勝てば十両というところまで出世しますが、アメリカ行きの話がいつの間にか立ち消えになったと知り、相撲取りを辞めて酒屋を開業することとなります。

「信用第一」の酒屋から、鉄鋼事業で大成功

 1913年、大谷氏は手元のものを洗いざらい質屋に入れてつくった80円を元手に妻・さとと一緒に「鷲尾嶽酒店」を開業しています。

 大谷氏の商売の基本は「信用を得るまで薄利多売でいかなければならない」(『私の履歴書』p95)です。

 最初の頃は酒を元値に近い値段で売ったばかりか、飲みかけの酒を「まずい」と文句を言ってくるお客さまに対しては「それはすみませんでした」と言って新しい酒を届けるほど「信用第一」を大切に夫婦で寝る間も惜しんで働いたそうです。

 その結果、店は「安い」と評判になり、やがて国技館の酒も一手に扱うほどの成功を収めます。当時を振り返って、大谷氏はこのような言葉を残しています。

「酒屋時代の5年間は苦しみも多かったが、働く楽しさを十分味わった。よく働いて、おいしいご飯を食べる喜びは金で買うことのできない幸せである」(『私の履歴書』p98)

 酒屋の成功によって、まとまった資金を手にした大谷氏は、酒屋は妻に任せ、かねてより「男の仕事」と考えていた鉄鋼事業に乗り出すことにしました。その理由を後にこう語っています。

「戦争(第一次世界大戦)が始まって、わしの耳には『鉄の仕事は儲かるぞ』という天の声が聞こえてきたんじゃ」(『20世紀日本の経済人』Ⅱp154)

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(Photo/Getty Images)

 1915年、深川で四軒長屋の二軒をぶち抜いて鋼材加工用のロール製造の下請け工場を始めた大谷氏ですが、もとより鉄に関する知識や技術を持っていたわけではありません。

 小学校も満足に行っていないため読み書きも得意ではなかったそうです。では、どうやって知識を身に付けたのでしょうか?

「鉄に関する本を読もうにも、私にはそうした専門書を読むことはできない。私にできる勉強法は、その工場に行ってその技術を目で覚えることしかなかった」(『私の履歴書』p101)

 ロールの製造工場に足を運んでは、「どういう色になればいいのか」などを頭の中に入れ、実地に製造してみることで知識や技術を身に付けていった大谷氏はロールの製造技術に関する特許を十数件も取ったというのだから驚きです。

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ニューオータニのあゆみ
(出典:ニューオータニHP「沿革」から筆者作成)

 やがて旋盤3台、社員4人でスタートした事業は大きくなり、東京や関西、そして大陸にまで工場を持つようになり、1940年に大谷重工業として統合した際には資本金が1億円を超える大企業へと成長していました。

 しかし、戦争は大谷氏から多くのものを奪います。

【次ページ】素人がなぜホテル建設を?

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