• 2026/08/24 06:10 掲載

山田玲司が超解説、『殺し屋1』『ヒミズ』も…90年代後半に「暗い作品」爆増したワケ(2/4)

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暗い時代の作品──『アガペイズ』『NG』ら製作の裏側

――なるほど。それを踏まえると、まさに狙ってご自身を時代に同調させて描いたと言える山田さんの作品はどれになりますか?

山田氏:そんな中でも「これは!」と言える会心作が『アガペイズ』(1998~2000年、ヤンサン連載)でした。ビジュアル系バンドのリーダーだった主人公が、思いを寄せる男性の甲子園出場のために野球に挑む話です。男同士の『人魚姫』みたいな話です。

 世の中が露悪的な闇に向かっていく中で、あえて闇の中から「光」を描こうと、正面切って純愛を描きました。当時の青年誌としては時代が早すぎたのかもしれません。闇を描いている間は人気が出ず、光のターンの話まで持っていく前に全9巻で連載は終了してしまうんです。

 実は、僕がこの作品で本質的な「光」に挑めたのは、先ほど触れた1997年の「脱皮(別人になったこと)」があったからなんです。

 当時の編集担当とはすごく仲が良くて、「中国に風水と密教の取材にいきたいんだ」と言ったらノリノリで全部段取りを組んでくれて。中国の「気」の話を追いかけに、上海や成都、さらにはチベットへの取材にも連れていってくれたりしましたね。

 ちょうど香港返還のタイミングで、東洋風水、陰陽五行、道教や鎌倉仏教、空海、密教などをガチで勉強しました。ポタラ宮まで行って、東洋の哲学に目覚めて思想が大きく変わったからこそ、『アガペイズ』が生まれたんです。すべて手配してくれた小学館には本当に感謝しています。僕はただ行くだけでしたから。

――新作を作るときにはどうやって企画を通すのでしょうか?

山田氏:時代から逆算して、いけそうなやつを並べて提案します。当時の僕にとって、集団アイドルのブームは受け入れ難い文化でしたが、それでもアイドル物は企画として通りやすいから、いったんアイドルを素材として取り入れれば、自分なりに料理できるんじゃないかと考えたわけです。

 そこで『Bバージン』の路線に戻って、「恋愛マニュアルもの」と、ちょうど始まっていた「インターネット文化」を掛け合わせて、ネットの恋愛競争みたいなものを装った道化少年の話を描こうと考えたわけです。編集者も「いいじゃん、それでいこうよ」って進んだのが『NG』(2000~2001年、ヤンサン連載)です。ただ、あまり長続きはしませんでした。

 その次に『ゴールドパンサーズ』(2001~2002年、ヤンサン連載)というサッカーをテーマにした作品を始めます。ちょうど日韓ワールドカップ(2002年)の直前で、「サッカー漫画、誰か描ける奴いる?」という話があったのに自ら手を挙げて、それに乗っかる形ではじめました。サッカーのことは詳しいわけではありませんでしたが…(笑)。

 それで当時、僕が夢中になっていた「NGO(非政府組織)」を盛り込もうということにしたんです。環境問題などを解決するために世界中から人が集まるNGOと、全員国籍が違うヨーロッパのクラブチームを結びつけて作品にしようとね。

 この作品は、かつて日本のマラドーナと呼ばれた天才プレーヤーが骨肉腫でサッカーができなくなるんだけど、その彼が世界各国に11人の隠し子をつくっているという設定です。全員違う国に違う母親がいて、アルゼンチンと韓国の隠し子で2トップ、ボランチは中国、ディフェンダーはスペインのバスク地方……みたいにポジションを分けて1つのチームになるというお話です。

 サッカーを使って、世界の多様性(NGO)を描こうと専門家にも話を聞き、各国のことを調べて1人ひとりのキャラクターを深く描きたかったのに、これも3巻で終了(打ち切り)になってしまいました。

――その時期の心境としてはどうだったのでしょうか?1作品、1作品を「出産している」みたいなもので、非常に身を削っている状況が続いているように思いますが…。

山田氏:作家は皆、水子霊に囲まれてるのだと思います。僕も、亡くしてしまった作品やそのキャラクターたちは、今もすぐ背後にいるような気がします。1つひとつ入り込んで、同化してつくったキャラクターと、人気がないからという理由で突然別れさせられるんです。たまらないですよね、経済的にも心理的にも。特に当時は、その3連敗が僕にはきつかったですね。

アイドルも日韓W杯も…2000年代の“嘘っぽい空気感”

――しかも、その時期の山田さんにとって受け入れがたい文化や時代の空気感を、素材として料理せざるを得ない環境というのは、なおキツイ状況ですよね。それだと、山田さんの中の本当に描きたい部分やテーマを作り込むことができませんよね…。

山田氏:自分にとって1992年(『Bバージン』の連載期)が最高の時代だったとすると、2003年頃は、僕にとって1番ヤバかった時期ですね。

 1996年以降、暗澹として闇に向かう社会の空気感を経て、その後に2000年頃に現れたつんく♂さんの歌に象徴される、“カラ元気”のようなアイドル文化にも、まったく同化できず、全部ウソにしか思えなかった。

 自分にとって、トドメとなったのが、日韓W杯ですよ。みんなが「世界よ、ありがとう!」みたいなことを言い出すわけです。あの頃の音楽も好きになれなかった。

 それまでは、作品作りにおいて「エンタメ97%、自分が本当に伝えたい部分(ナイフの部分)3%」というバランスでやってきましたが、自分としても、なかなか結果がでないから、大事にしていた“3%部分”すら、どんどん出せなくなっていくわけです。僕自身、30代となり、自分自身をさらけ出すように素直に描いても、それが読者(≒時代)と合わなくなっていったわけです。

――そんな絶望の淵にあって、逆に名作が生まれてきた、というのは面白いですね。

山田氏:その時期に誕生したのが、著名人へのインタビューからお聞きした“生きるヒント”をエッセイ漫画として紹介していく『絶望に効くクスリ』(以下、絶薬。2003~2008年、ヤンサン連載)ですね。時代も俺自身も絶望に向かっている中で、「悩んでいる僕自身のためにも、各業界の最先端の人たちに会いに行って、希望のライム(言葉)をもらおう」というのがコンセプトだったわけです。

 最初は『ゴーマニズム宣言』(小林よしのり氏がオピニオンを描く長期連載漫画)を超えようと企画したエッセイものだったんです。あの頃、小林よしのりさんが好き勝手に言いたいことを言っていたのを見て、「俺のほうがもっと面白い事を言えるぞ!」と思って、ヤングサンデーの編集長に直談判したんです。

 そしたら、「山田さんの話もいいけど、山田さんが誰かに会ってその人の話を描いてよ」とインタビュー形式を逆提案されたんです。

 というのも、その編集長が当時ハマっていたのが『大改造!!劇的ビフォーアフター』(朝日放送、2002年~)でした。「あのボロボロの家が、あそこまできれいになった!というような感じで、毎回必ず問題が解決するじゃん。あのフォーマットがいいんだよね。山田くんもああいう作品をやらない?」とね。だいぶテキトーな提案でしたよね、今思うと(笑)。 【次ページ】『絶望に効くクスリ』の秘話、オノ・ヨーコに取材できたワケ
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