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  • 2017/10/05 掲載

ヤンマー創業者が決断した「事業が過去の遺物となった」時のビジネス転換

連載:企業立志伝

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時代の変化、技術の進歩によって自分がやってきた商売が過去の遺物になりかけた時、経営者はどんな決断をすればいいのでしょうか。ガスから電気、石油へと変わるエネルギー革命の時代、明治のベンチャー経営者・山岡孫吉氏は、ブローカーからエンジンメーカー、そして世界初の小型ディーゼルエンジンの発明によって事業を拡大。いまや農機、建機、発動機、小型船舶などの製造・販売を行う大手企業、ヤンマーホールディングスの基礎を築くことに成功しました。

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

1956年広島県生まれ。経済・経営ジャーナリスト。慶應義塾大学卒。業界紙記者を経てフリージャーナリストとして独立。トヨタからアップル、グーグルまで、業界を問わず幅広い取材経験を持ち、企業風土や働き方、人材育成から投資まで、鋭い論旨を展開することで定評がある。主な著書に『世界最高峰CEO 43人の問題解決術』(KADOKAWA)『難局に打ち勝った100人に学ぶ 乗り越えた人の言葉』(KADOKAWA)『ウォーレン・バフェット 巨富を生み出す7つの法則』(朝日新聞出版)『「ものづくりの現場」の名語録』(PHP文庫)『大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ』(ビジネス+IT BOOKS)などがある。

大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ (ビジネス+IT BOOKS)
・著者:桑原 晃弥
・定価:800円 (税抜)
・出版社: SBクリエイティブ
・ASIN:B07F62BVH9
・発売日:2018年7月2日

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ビジネス転換なくして、いまのヤンマーはなかった

奉公に出て、1万円貯めてみせる

 1888年、今の滋賀県長浜市高月町の貧しい農家の四男として生まれた山岡氏は七郷村小学校の高等科を卒業した後、しばらくは父親と一緒に農業に精を出しています。

 しかし、わずか二反あまりの農地では暮らしが楽なはずもありません。ちっぽけな土地にしがみついて一生を終わるよりは外の世界に出て一旗あげたいと考えた山岡氏は父親が京都に行って留守の間に母親に「奉公に出て、1万円貯めてみせる」という意思を伝えました。

 山岡氏の決意を聞いた母親は貴重な米一俵を売って3円60銭の旅費を用意、大阪へと送り出してくれました。山岡氏が15歳の年です。地方から奉公に出る場合、普通は奉公先を決めてから出ていくものですが、山岡氏の場合は大阪に長男の栄太郎氏はいたものの弟の奉公先を世話できるような力はありませんでした。

「大望をいだいて大阪へ出てきたものの、何のアテもない」(『エンジン一代・山岡孫吉伝』、小島直記著、集英社文庫)

 山岡氏は兄のもとに身を寄せて奉公先探しを始めます。天満のメリヤス屋や写真の台紙屋などに住み込んで働くようになった山岡氏ですが、1年半後、病気になったために店をやめ、しばらく兄の家で寝たり起きたりの生活を余儀なくされました。

人生を変えた出会い

 やがて身体の具合が少し良くなってきた山岡氏は、昔から好きだった釣りに出かけるようになります。そこで出会ったのが大阪瓦斯(ガス)の技師・藤井政太郎氏でした。この出会いがその後の山岡氏の人生を決めることになりました。

 当時、大阪瓦斯はガスの供給開始に向けて大阪市内にガス管を敷設する工事を急ピッチで進めていましたが、山岡氏は運よく「鉄管を埋め込む」仕事をする作業員として雇われたのです。

 やがてガスが供給され、普及するにつれてガスエンジンの据付け工事も行われるようになりました。

 当時、動力としては蒸気機関が一般的でしたが、据付けには広い場所が必要で、操作も難しかったため、小馬力で十分な町工場などが続々とガスエンジンを採用、山岡氏は据え付け工事を通してガスエンジンの知識も身に付けていくことになりました。

 現在、ヤンマーの本社がある大阪に出てくるとき、山岡氏の頭にあったのはどこかの店で奉公人として働きながらやがて店を持つことだったそうですが、ガスが普及する時代、思いがけない人との出会いによって山岡氏は生涯の仕事となるエンジンと出会うことになりました。

 昼も夜も懸命に働く山岡氏の当時の収入は1日84銭でした。奉公人時代の収入に比べればはるかに高額でしたが、それでも故郷を出てくる時に母親に誓った「一万円を貯める」ためには何十年もの月日が必要になります。そんな山岡氏が手がけるようになったのがゴム管やガス器具などの販売であり、さらに中古のガスエンジンを新品同様に磨き上げて売るという商売でした。

目を外に向ければみんなには見えない需要が見えてくる

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ヤンマーの主な年表
 1912年、山岡氏はヤンマーの前身となる「山岡発動機工作所」を創業、中古のガスエンジンの修理や販売を本格化させます。

 しかし、ちょうどその頃、それまで電灯用に限られていた電気が動力源として利用され始めたことで、ガスエンジンは時代遅れとなり始めていました。まさに存亡の危機に立ったわけですが、山岡氏は同業他社が次々と廃業する中、地域間格差に着目、エリアを広げることで事業を拡張することに成功しました。

 山岡氏の会社がある大阪ではたしかにガスエンジンから電気モーターへの移行が進んでいましたが、大阪以外に目を向ければ動力用電力の供給のない地域も多く、ガス会社すらない地域もあったのです。こうした地域ではガス発生装置をセットしたガスエンジンの需要がとても多かったのです。

 山岡氏は高等教育は受けていませんが、その分、「実地の見聞でカバーしよう」と各地を歩き、好奇心を持ってものごとを見ていました。

 外に目を向ければ需要はいくらでもあると気づいた山岡氏は大阪に溢れる不要となったガスエンジンをタダ同然で買い集め、自社工場で修理や改造を行い、新品の半値以下の値段で販売することで業績を伸ばすことに成功しました。

 念願通り「村一番の成功者」となった山岡氏ですが、さらなる不幸が襲います。第一次世界大戦終了後の不況をガスエンジンの修理販売から石油エンジン製造(1921年にヤンマー変量式発動機を製造販売)への転換で乗り切った後、激しい労働運動などに巻き込まれたことで事業を続ける意欲が失せたのです。

 そこで山岡氏はヨーロッパ旅行に出かけることになりました。奉公をやめたあとの釣り三昧の日々が新たな出会いを生んだように、目的を持たないその旅行が再び山岡氏に新たな出会い、新たな目標をもたらすことになりました。

【次ページ】背水の陣を敷いて「世界初」に挑戦

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