- 会員限定
- 2017/01/12 掲載
ヤマハはなぜ「酷評」の中でも「楽器世界一」になれたのか
連載:企業立志伝
起業家にはひらめきと技術、才覚、粘り強さが求められる
渡り職人として各地を旅している時に立ち寄ったのが、のちにヤマハが本社を構える浜松です。当時、そこで医療器具の修理などを行っていた山葉氏ですが、あるとき浜松尋常小学校からの壊れたオルガンの修理依頼を受けました。
当時、オルガンはすべて輸入品で、学校職員であっても校長の許可なしに使用してはいけないと言われるほどの高価な品物。そんな高価なオルガンの音が出なくなったのだから大変です。当然、専門の業者はいません。そこに白羽の矢が立ったのが、西洋の医療機器などを修理する山葉氏でした。
山葉氏にとってオルガンの修理は初めてでしたが、精密な時計や医療器具を修理してきた山葉氏にはさほど難しい仕事ではなかったそうです。しかし、その時、山葉氏に一つのひらめきが生まれました。「この舶来物を図面に写し取って同じものをつくれば商売になる」(『日本のピアノ100年』より)というものでした。
当時、オルガンは45円でしたが、山葉氏は自分では3円くらいでてきると考え、すぐに国産のオルガンづくりに取り組むことにしました。
起業家に求められるのはビジネスチャンスをつかむひらめきと、ある程度の技術力、商売にする才覚、そして成功するまで続けるひたむきさや粘り強さですが、幸い山葉氏はそのすべてを兼ね備えていました。
山葉氏は飾り職人の河合喜三郎氏とともにオルガンづくりを始めますが、最初は失敗の連続でした。“オルガンらしきもの”はつくりましたが生命線とも言える音律がまったく違っており、東京音楽学校の教師からは「体はなせども、調律不備にして使用に耐えず」(『日本のピアノ100年』より)と酷評されています。
それでも諦めきれない山葉氏は調律法を自ら学び、再度オルガンづくりに挑戦、東京音楽学校の校長から合格点をもらうほどのオルガンをつくり上げました。自信を得た山葉氏は1889年、ヤマハの前身・山葉風琴製造所を設立、オルガンの製造と販売に本格的に乗り出すことになりました。
高価な舶来品を国産化しようという山葉氏の気概に賛同する人も多く、同社は順調に成長、1892年には東南アジアにオルガン78台を輸出するほどになったのです。これが、我が国初の楽器の輸出となりました。
ピアノをつくるのはヒトをつくってから
しかし、ピアノをつくる難しさはオルガンの比ではありません。しかも山葉は同業他社と違って「外人の指揮教授を受けず」(『日本のピアノ100年』より)をモットーに、自力でのピアノづくりに挑んだのです。
そのため、外箱を除く多くの部品を輸入に頼り、出来上がった「ピアノ」は最初は山葉氏自身も冗談まじりに「ピア」(ピアノに至らずの意味)と呼ぶほどでした。
1897年、日本楽器製造(1987年にヤマハに社名変更)を設立した山葉氏は翌年、渡米して41カ所のピアノ会社(部品メーカーも含めると100カ所)を訪問し、本格的にピアノの生産、それも大量生産を目指すことになります。
そのために人づくりにも熱心に取り組み、大勢の人材を育てていますが、その中の1人がのちに河合楽器を創業する河合小市氏です。「ピアノをつくるには人間をつくってから」(『日本のピアノ100年』)が山葉氏の考え方でした。
そこから生まれたのが1900年に完成した「カメン・モデル」で、「国産第一号」と認定されています。そして山葉氏が社長を退陣する前年の1911年にはピアノの年産は500台を超え、オルガンに至っては約1万台も生産するほど、楽器生産日本一の企業へと成長することになりました。
【次ページ】ものを売るには需要をつくり出すことが先決だ
関連コンテンツ
関連コンテンツ
PR
PR
PR