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- 2017/02/08 掲載
セイコー創業者の「時計王」はなぜ日本初、世界初を連発できたのか
「考え続けて」たどり着いたアイデア
そんな父親の姿を見て育った服部氏は、読み書きそろばんを学んだ寺子屋で塾頭から後継者として期待されるほど学力優秀だったと言われています。服部氏は不遇な商人で終わりそうな父親を喜ばせるためにも商売で成功を収めたいと考え、1872年に12歳で「唐物」と呼ばれた輸入雑貨などを扱う「辻屋」に丁稚奉公に出ています。
「早く店を持ちたい」というのが服部氏の願いでしたが、唐物屋の開業には多くの資金が必要になります。そう思い悩んでいたある雨の日、服部氏は向かいの時計店を見て、ある考えが浮かびました。
雨が降ると、俺たちは暇になるけど、あっちの小林時計店はお客が来なくても時計の修繕をやって稼げる。時間を有効に使えるわけだ。時計屋は時計を売るだけでなく、修繕でも儲けられる。時計修繕の技術を身に付ければ、修繕業から始めてコツコツと開業資金を貯めることができる(出典:『時計王セイコー王国を築いた男』,p43)
当時、いつか店を持つことを夢見ていた人は数多くいました。服部氏もその一人ですが、ただ夢見るだけではなく、どうすれば開業資金を貯められるか、どんな商売をすれば成功できるのかを考え続けており、だからこそのひらめきでした。
「ちっぽけな店」と揶揄された創業期
やがて一通りの技術を身に付けた服部氏は1877年、父親の店に「服部時計修繕所」という掲げ、あちこちの夜店で古時計や故障した時計を安く買いこみ、それらを修繕して売るようになりました。
その一方で、名人と呼ばれる人の所を訪ねて修理の腕を磨いた服部氏は蓄えたお金を元に1881年、自宅の近くに「服部時計店」を開業しました。のちのセイコーのスタートです。
それはかつての同僚から「こんなちっぽけな店じゃ、おつけ(味噌汁)の実ほどの儲けもあるまい」と揶揄されるような店でしたが、生来の勤勉な性格と、「薄利多売」に徹し、お客さまからの要望に誠実に応えるやり方が信用を生み、売上げ、利益ともに積み重ねていったのです。
正直にして堅実が商売の王道である
やがて時計の修繕と小売りだけでは飽き足らなくなった服部氏は、横浜の外国商館から仕入れた舶来時計の販売に乗り出します。当時、同業他社の多くが「30日払い」の契約を守らず信用を落としていたのに対し、服部氏は「正直は最善の商道である」として約束を誠実に履行。外国商館から「服部に信用貸しするのは、倉庫に預けておくより安全で、しかも有利だ」というほどの信用を得て、舶来時計の販売は大きく伸びることになりました。当時の服部氏のモットーは「薄利多売」と「休むな、急ぐな」という堅実なものでしたが、堅実一点張りでは積極さに欠けることになります。
服部氏はあくまでも堅実な商売を続けながら「絶えず人より一歩だけ先を歩け」(『時計王セイコー王国を築いた男』,p124)を意識するようになります。横浜の外国商館からの仕入れを、アメリカの企業などからの直接輸入に切り替えるなど一歩先を行くようにしますが、やがてとても大きな一歩を踏み出すことになりました。
【次ページ】預言者にはなるな!一歩だけ先を行け
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