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- 2017/08/07 掲載
10兆円企業、日立製作所はなぜここまで成長できたのか
連載:企業立志伝
東京帝国大学で受けた日本工業は「幼稚」の衝撃
やがて栃木高等小学校を卒業した小平氏は儀平氏に促されて上京、第一高等中学校の受験を目指すことになりますが、1888年12月に父親が48歳の若さで死去してしまいます。当時、小平家には7人の子どもがおり、父親の事業の借金も残されていました。小平氏も兄とともに学業を断念することを考えましたが、兄が長男の義務として学問の道を諦めたことで、小平氏は兄と母親の支援によって学生生活を続けることになりました。
父親の死に衝撃を受けた小平氏はそれまで以上に熱心に勉強するようになり、第一高等中学校を経て東京帝国大学(現東京大学)電気工学科に入学。欧米諸国に比べて日本の工業が「幼稚」であることを知り、こんな決意を口にしています。
「わが国の工業が振わなければ、これを振わせるのはわが任務であり、決して会社の番人に終わるべきものではないことを深く感じた」(『技術王国日立をつくった男』p88)
1900年、大学を卒業した小平氏は藤田組小坂鉱山に電気主任技術者として入社、発電所づくりに携わったのち、広島水力電気や東京電燈(現・東京電力)を経て、1906年に久原鉱業所日立鉱山に工作課長として入社しています。
鉱山の開発には多くの動力を必要とします。小平氏の仕事はそのための発電所の建設や、鉱山で使用する機械・電気設備の設計・設置などでしたが、こうした現場で使われる機械設備のすべてが当時は外国製でした。
この現状に対して小平氏は「何とかしなければ」という思いを持っていました。ある時、その思いを大学の同級生で、渋沢栄一氏のおい、渋沢元治氏にこう打ち明けています。
「今僕が従事している仕事は外国から機械器具を輸入し、それぞれの製造会社から技術者を雇い入れ、われわれが据付けをやっている。あちらから先生が来て実地に教えるのを覚えるのは難しいことではなく、誰にでもできる。しかし僕はこれらの機械器具を日本でつくれるようにしなくてはならぬと思う」(『技術王国日立をつくった男』p26)
日本を急いで近代化するためには外国の優れた機械器具や技術に頼るのは仕方のないことでした。国産化には大変な労力と時間がかかります。そう語る渋沢氏に対し、小平氏は「やせても枯れても自分でつくってみたい」と己の決意を変えることはありませんでした。
外国人の手引きに頼らず独立独歩の道を行く
もちろん簡単ではありませんでした。小平氏によると、自分たちが発電機をつくり始めた頃は、「つくってもつくってもモーターは回らない」状態で、「もうつくるのはやめようかと悲観した」というほどの苦労をしています。
理由は「スケッチ流」、つまり「外国人の手引きに頼る」のでは、自力での開発に取り組んだからです。結果、たくさんの失敗をすることになりますが、「自ら苦しんで失敗しつつ覚える」というのが小平氏の考え方であり、それがのちの日立にも引き継がれていくことになりました。
苦労の末に1910年には日本初の5馬力モーターを完成、同年11月に日立製作所を創業しています。とはいえ、その性能は外国製に比べて「まだまだ」のレベルであり、久原鉱業所の日立製作所への信用は低く、相次ぐ故障に「機械製作をやめろ」と非難されることもたびたびでした。
【次ページ】事業の根幹は多くの良い人間を持っていること
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