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- 2024/11/06 掲載
「ガンダムシリーズ」は生涯いくら稼いだ? 今1番熱い…バンダイナムコの経営の凄さ
連載:キャラクター経済圏~永続するコンテンツはどう誕生するのか(第26回)
ロボットアニメ全盛期に「ガンダム」どう誕生した?
ガンダムが生まれた1970年代はロボットアニメ全盛期である。『マジンガーZ』(1972年)や『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)など、アニメ業界の黎明期において「社会現象」となるほど大ヒットした作品が数多く存在した時期である。ガンダムを生んだ富野由悠季氏は、1964年に虫プロに入社し、『鉄腕アトム』(1963~1966年)で脚本・演出を手掛け、『海のトリトン』(1972年)で監督デビュー、その後、出世作となる“ロボット3部作”を手がける。
1作目『無敵超人ザンボット3』(1977~1978年)では、「ロボットも道路交通法を守る」という“リアルな世界との接続”が作品の中で模索された。それまでの作品ように、ガンガン街を壊す巨大ロボが登場する“子供向け”のファンタジー世界とは異なり、人間社会のリアルを作品に入れ込んだ。この手法に富野氏は「リアルなものを創る」手ごたえを覚える。
2作目は、彼自身が大変だったと振り返る『無敵鋼人ダイターン3』(1978~1979年)だ。単話ごとのぶつ切りで、ロボットがカンフーをしたり、とにかくおちゃらけをちりばめた作品だ。現代のように、アニメ作品は劇場版にもならず、ビデオとしても残らないこの時代は、売りたい商品に合わせて作られる「30分のCM」のような位置付けにある“使い捨てアニメ”が多く、後のガンダムシリーズが見せる深い世界観や人間考察などの要素を作品に入れ込む余地もなかった。
富野氏はこの2作目を経て、単話作品の制作の難しさを知り、それとは異なる「リアルなストーリーライン」を前提とした、各話がつながるテレビアニメ作品として、ロボット3部作の3作目『機動戦士ガンダム』(1979~1980年)に取り掛かったという(注1)。
誰に刺さった?「熱を持ったファン層」とは
こうして始まったガンダムシリーズ。複雑なキャラクター同士の関係性とそれが作り出す「深み」は、それまでのアニメにはなかなか見られないレベルのものだったのかもしれない。だが、そのリアルな作風は子供には受け入れられず、関東は数%台と低迷。クローバー社の合金玩具が売れなかったことで、1980年1月にわずか10カ月で打ち切りが決まる(注2)。
だが、ガンダムはヒットしていた。熱狂していたのが男子児童ではなく、『宇宙戦艦ヤマト』(1974~1975年)で育てられた青年層だったのだ。
それを示すように、当時、ガンダム特集を行った徳間書店の雑誌『アニメージュ』の1979年9月号が17万部も売れ、『アニメック』など含めガンダムで増刊のピークに付けたアニメ雑誌は多い。1981年頃、すでに100万部級になっていた『ドラえもん』を擁する『コロコロコミック』を追い上げるべく、講談社も『コミックボンボン』でガンダムを中心に据え、『プラモ狂四郎』などの作品で立ち向かい、50万部を超える児童向けマンガ誌へ成長していく。
こうした青年を中心とした熱狂が生まれていたこともあり、アニメ放送打ち切り1年後の1981年2月に行われた、劇場版のためのプロモーションイベントでは新宿駅東口に2万人ものファンが集まった。現場はパニック状態の中、富野監督による鶴の一声で静まったという“事件”すら起こっている(注3)。当時はニュースの取り上げも限定的、SNSもない。視聴率と玩具売上からみたアニメ放送の限界を感じるエピソードでもある。
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