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- 2024/09/17 掲載
「ウルトラマンシリーズ」でどれだけ儲かった?今1番キテる…円谷プロの経営を大解剖
連載:キャラクター経済圏~永続するコンテンツはどう誕生するのか(第25回)
円谷プロの生みの親「円谷英二」の凄さ
ウルトラマンの生みの親である円谷英二氏(1901~1970年)は、東宝の特撮技術(特技)の監督であり、かの有名なゴジラの生みの親でもある。特撮技術はミニチュアや着ぐるみを駆使してあたかも実写のように見せる技術であり、1980年代にCG技術が導入されるまでは空想世界を撮るためには必要不可欠な技術だった。漫画もアニメも米国輸入から始まった産業だが、「特撮」に関しては日本独自のものと言える。1901年生まれの円谷英二氏は、18歳のときに映画業界に飛び込み、カメラマン助手などからスタートしたが、持ち前の器用さや飛行機好きの特技を生かして撮影車やクレーンを組み立て、背景やミニチュアセットを組むようになる。1933年に出会ったハリウッドRKO(現在はワーナー)の映画『キング・コング』を見た衝撃から「特撮の道」を決める(注1)。
1947年に東宝を退職した円谷氏は1948年に「円谷特殊技術研究所(後の円谷特技プロダクション→円谷プロダクション)」を設立、大ヒット作『ゴジラ』を生み出すことになる。
当時、主流であった撮影手法「ストップモーション(コマ撮り技法)」を制作期間の短さから諦め、代わりに採用したのが、着ぐるみで演じることであった。これが思わぬヒットとなり、その後「モスラ」「バラン」など続々と特撮怪獣映画を作り続け、いつしか「特撮の神様」と呼ばれるようになる(注2)。
だが円谷氏の本当の凄さは、制作者としての技術のみならず、メディアの将来を見通す慧眼にもあったと思われる。
円谷プロ最初期の「成功の方程式」
円谷プロは、東宝との専属契約解除後、テレビ業界への進出を画策している。「新しいもの好き」だった円谷英二氏は、長男の一氏をTBSに、次男の皐氏をフジテレビに、三男の粲氏を日本テレビにと入社させていたくらい「テレビの未来」に賭けていたのだ。そんなテレビ向け特撮として1966年に始まったのが「ウルトラQ」(当初「アンバランス」というタイトルでスタート)は30%を超える視聴率を叩き出す。驚くべきは、30分番組の制作費として250万円前後が相場だった当時、円谷プロには例外的に500万超の制作費が与えられていたことだ(注3)。
時には予算を大きく超え1,000万円の製作費をかけるなど、大赤字でもウルトラマンシリーズを作り続けたこの円谷氏のこだわりは、「毎週30分アニメなんて不可能」とされながら30分わずか155万円で『鉄腕アトム』(1963年)の日本初のシリーズアニメ化を赤字の中でも実現した手塚治虫氏と、時期も志も重なる(参考:1963年公開の東宝動画『わんぱく王子の大蛇たいじ』は85分で制作費7,000万円)。ちなみに、本人のマンガ原稿による年収900万円をつぎ込んでも赤字は埋まらなかったという(注4)。
そうした精神は受け継がれ、1990年代も放送局から出る制作費の水準2,000万(ドラマ制作の場合)に対して、円谷プロは4,000万かけるという「倍額でクオリティに突っ込む」という文化は数十年の時を経て円谷プロの礎となっている。結局彼らは「血を吐きながらマラソンを続ける」ことで人気を集め、その後になって版権ビジネスやスポンサーによって回収するというモデルを「発明」していくのだ(注5)。
そんな円谷プロだが、経営としては厳しい時代も経験し、そこからV字回復とも言える成長を遂げている。実際に、円谷プロはどのような変遷をたどり、その中でウルトラマンはどのような売上を出していくのか。ここからは、ウルトラマンシリーズの流れを追いながら詳しく解説していきたい。
ウルトラセブン・A・タロウ・レオ時代の「経営の裏側」
だが、どだい無茶なそろばんをはじいた商売である。虫プロは1973年に倒産、円谷プロも1966~1969年で『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』でシリーズが終了、第1次怪獣ブームが一服するころには債務超過が限界突破、東宝から救済としての資本を受け入れることになる(資本60%以上の親会社となった)。同時に社名を「円谷特技プロダクション」から「円谷プロダクション」に改名している。今すぐビジネス+IT会員にご登録ください。
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