- 2026/08/19 06:10 掲載
『Bバージン』山田玲司が今明かす…師匠・江川達也に学んだ「完璧なヒットの方程式」(2/4)
スケベ・アクション・人情? 江川達也に学んだ売れる方程式
――アシスタント生活はどうでしたか?山田氏:とても自分にとって大事な時間になったと思いますし、江川さんの影響は、その後の自分の作家活動にとって大きかったと思います。江川さんは何がすごいかというと、商業誌の特性を分析していたことです。
売れる秘訣も明言していて、「スケベ・アクション・人情噺」だと。主人公は「バイクのような乗り物に乗っているべきだ」といったような、“売れる方程式”みたいなものをマニュアル的に自分の中に持っていました。
作画のレベルも半端なく高い。画面作りで言うと「ハッタリの利かせ方」みたいなものが抜群にうまいんですよ。
たとえば、見開き大ゴマの1ページを、1日かけて描くこともあるんです。自分1人だけで、主人公が乗っているバイクのパーツの本当に細かいやつを描き切るんですよ。
翌日、それを渡されたアシスタント同士で集まりながら「ちょっとこの作画のレベルに他のページを合わせるのは大変だぞ…」とよく思ったりしていましたね。
――たしかに、当時『BE FREE!』と『東京大学物語』を読んでいた私も、コマの作り方が凄いなと1読者として衝撃を受けたのを覚えています。
山田氏:「これがプロだ!」というのを間近で見ましたし、すごい差を感じましたね。「よーし、ここははったりを利かせるぞ!」という場面では、ページをめくるリズムを計算して読者をビックリさせる仕掛けを入れていく、それが作品に外連味(けれんみ)を生んでいく、といった感じでしょうか。
あの江川さんのアシスタントをしていた時代に、自分のレベルも恐ろしいほど上がりましたね。自分では描いたことのないレベルの精密な背景画を描く経験をさせていただきながら、「ああ、これが自分の原稿だったらいいのに…」と何度も思いましたよ。
――制作現場の雰囲気ってどんな感じなんですか?
山田氏:当時の青年誌は、色々な作家が「新しいエロ」を模索して戦っていた時代なんです。だから、エロを恥ずかしいことではなく“誇り”としているような、そんな空気感がありましたね。
そうした中で、江川さんは僕に対して「山田くんより、俺のほうがスケベだぜ!」ってマウントを取って競ってくるんですよ。そういうノリは本当に最高でした。僕にとっては最高の環境(プレゼント)でしたね。
――1970年代では、エロやバイオレンスは、編集者からストップがかかることが多かったテーマだったと思いますが、当時はどうだったのでしょうか?
山田氏:当時は、編集者もイケイケでしたね。モーニングの小川さんも「いいね、いいねーー!」という感じでした。テーマに限らず、「バイクのヘルメットを戦闘機に変えてしまいましょう」とか「学校も全部爆破させちゃいましょう」とか、とにかくイケイケでしたね。
永井豪が関係?「変わった人」が青年誌に集まってきた理由
――これは1980年代後半に講談社の『モーニング』や『アフタヌーン』、小学館の『ヤングサンデー』などの青年誌の影響なんでしょうけど、この時代って少年誌もエロに関してはどんどん寛容になっていった印象があります。山田氏:青年誌から少年誌にも影響していましたね。江川さんがジャンプに移って『まじかる☆タルるートくん』(1988~1992年)を連載し、桂正和さん(1981年デビュー)が『ウィングマン』(1983~1985年)から『電影少女』(1989~1992年)へと連載していたし、萩原一至さん(1987年デビュー)が『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』(1988年~)を描いていた。
ここらへんはみんな永井豪さん(『マジンガーZ』『デビルマン』など)に触発された漫画家たちですよ。永井さんがやった革命で、漫画界は相当自由になった。それで過激な表現だってOKになったんです。
――山田さんはなぜ青年誌を目指したんですか?ジャンプやマガジンを目指す、という選択肢もあったのでしょうか?
山田氏:少年誌は「型」がしっかりしちゃってるように感じたんですよね。青年誌には、当時、新しいことできる空気がありましたから。
モーニングでの江川さんは「なんでもありだな!」って感じでしたし、スピリッツでもたがみよしひささん(1979年デビュー)の『軽井沢シンドローム』が僕にはとても新しかった。
どちらかというと「地方出身で、漫画一筋のタイプが王道の少年誌を目指す」傾向があって、ちょっと物事を斜めに見ている僕ら都会育ちだったりする「変な奴」は、みんな青年誌に向かっていく雰囲気がありました。だから最初に「やっぱりスピリッツだな」と持ち込んだんですよ。
――当時、多摩美にも属する学生としては、漫画家の道一直線という考えだったのでしょうか? 後に個展も開くくらいですし、別のジャンルのアーティストの道もあったのかが気になります。
山田氏:専業アーティストもいいな、と思う時代もあったし、絵画のアートは今も続けています。バブルに入っていく時代で、アーティストは美大から青田買いもされていましたからね。
それでも、江川さんのところでアシスタントをやったり、漫画を続けて描いているうちに、気づいてくるんですよね。美大生としては全然上のレベルの友達も、「漫画で描く」となると全然たいしたことないんですよ。
「自分なりの絵」というフォーマットを決めて、コマにリズムを持たせて描く、ってことになると、デッサン力とは全然違うわけなんですよね。
デビューからまさかの3連敗…彼女にも捨てられたどん底期
――実際に受賞もされて、連載が始まるんですよね。山田氏:1986年に講談社で「ちばてつや賞」をいただきました。でもそれで始めた『17番街の情景』(1986~1988年)は、鳴かず飛ばず。新人はよっぽど画期的な表現があったり、尖りに尖っていないといけないですよね。結果、『モーニング』の真ん中くらいの順位で終わっちゃいました。
これではヤバいと焦っていた時に、ちょうど小学館の『週刊ヤングサンデー』が創刊されるということで声をかけてもらい、『眠れぬ夜のために』(1987~1988年)の連載を始めたんです。これは、そこそこ良かったですね。
でも、それが講談社からNGを食らい、「ヤンサンでは描くな」とストップがかかりました。
というのも、僕は江川さんのアシスタント時代から、1年くらい講談社『モーニング』の編集担当に自分の原稿を見てもらいながら育てていただいていたんです。その時期に僕に賞をくれたのも講談社。それなのに、デビューしてすぐに他社の小学館へ行っちゃったものだから、不義理を怒られてしまったんですよね。
当時の僕は「両方やれます」と思っていたのですが、このことを親父に相談したら「道義的には、先に声をかけてくれた講談社を優先して筋を通すべきだろう」と言われました。それで小学館側には平謝りして、自らヤンサンの連載を途中で中止させてもらったんです。
ところが、そうやって義理立てして講談社に残ったにもかかわらず、その後の『モーニング』での『霧の降る夜に』や、小川さんが新しく立ち上げた『アフタヌーン』に付いていって描いた『SWEET DREAMS』は振るわず、わずか2話で切られちゃったんです。
結局その後、2回目の作品もダメで、まさかの3連敗(後に他誌も含め4回連続打ち切り)をしてしまい、それ以降は何の企画も通らなくなって、すっかり人間不信になってしまいましたよ。
――「同じ漫画賞出身の同期が次々と売れていく中、たしかに俺は、落ちぶれ組だった」と、自伝的にもご自身の漫画で告白されていますよね。1988年、当時21~22歳の山田玲司さんは、「漫画家は諦めて趣味で続けろ」と彼女に合鍵を投げ返され、浮気をされて、自暴自棄になった、とあります。
山田氏:そうですね、受賞同期は山田芳裕(『へうげもの』など)、土田世紀(『編集王』など)、若林健次(『ドトウの笹口組』など)で、彼らはどんどん連載を獲っていく。そういう焦りの中で、当時はその『SWEET DREAMS』がメジャーでやっていくラストチャンスだと思っていました。それだけに、精神的には本当に暗かった時期だったと思います。
あのときはチェルノブイリ原発事故(1986年)から始まり、仕事はうまくいかなくなるわ、彼女もいなくなるわで最悪でしたね。世間もバブル真っ最中で、クリスマスなんて高級ホテルの予約付きディナーが当たり前の時代です。そういう空気への反骨心が振り切って、パンク精神が強くなっていくんですよね。忌野清志郎とかブルーハーツに傾倒して、「これだよ!」って思いながら、はいつくばっていましたね。自分は本当に“ドブネズミ”だと思ってました。
――島本和彦さん(1982年デビュー、『炎の転校生』『アオイホノオ』など)の自伝的青春漫画『アオイホノオ』(2007年~、小学館)は、1980年代、アニメや漫画の世界を目指す若者たちが、ライバルへの嫉妬や羨望、自己嫌悪を抱えながらもがく姿を描いています。読んでいると、当時の空気そのものを感じます。
山田氏:島本和彦さんは自分にも似てるなと思いました(笑)。僕はデビューもして担当編集も付いているし、漫研では楽しくやっていたし、バンドなんかもやっていて良い時代ではありますけど、同時に「卒業までにはやくデビューしないと」「はやく連載を獲らないと」という焦りも大きかったですね。 【次ページ】絶望期から這い上がるキッカケとなる…“ある人からの助言”
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