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  • 2026/03/06 掲載

手塚眞が語る「父・手塚治虫」にまつわる伝説の真相、息子も驚く“天性のスゴイ能力”

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“マンガとアニメの父”と呼ばれる手塚治虫氏──。その圧倒的な存在を、息子であり、自身も映画監督として活躍する手塚眞氏はどう見ていたのか。自宅がそのまま仕事場となり、編集者やアニメーターが行き交う環境で育ったからこそ知る、天才の素顔。世間のイメージとは少し異なる父親としての一面と、クリエイターとして備えていた桁外れの“ある才能”とは何だったのか。今回、手塚眞氏に話を聞いた。
聞き手・執筆:エンタメ社会学者 中山 淳雄

エンタメ社会学者 中山 淳雄

東京大学大学院修了(社会学専攻)。カナダのMcGill大学MBA修了。リクルートスタッフィング、DeNA、デロイトトーマツコンサルティングを経て、バンダイナムコスタジオでカナダ、マレーシアにてゲーム開発会社・アート会社を新規設立。2016年からブシロードインターナショナル社長としてシンガポールに駐在し、日本コンテンツ(カードゲーム、アニメ、ゲーム、プロレス、音楽、イベント)の海外展開を担当する。早稲田大学ビジネススクール非常勤講師、シンガポール南洋工科大学非常勤講師も歴任。2021年7月にエンタメの経済圏創出と再現性を追求する株式会社Re entertainmentを設立し、大学での研究と経営コンサルティングを行っている。『推しエコノミー「仮想一等地」が変えるエンタメの未来』(日経BP)、『オタク経済圏創世記』(日経BP)、『ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか』(PHPビジネス新書)など著書多数。

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ヴィジュアリスト
手塚眞氏
高校時代から映画制作を始める。長編映画や短編、実験映像、テレビ番組、アニメ、MV、CGなど幅広い映像作品を手がける“ヴィジュアリスト”。1985年に『星くず兄弟の伝説』で商業映画監督デビュー。1999年発表の『白痴』はヴェネチア国際映画祭などで高く評価される。主な作品に『ブラックキス』(2004年)、『ばるぼら』(2019年)ほか多数。
※手塚治虫/手塚プロダクションの「塚」は、正しい表記は旧字体となります。

父は手塚治虫、実家は仕事場…特殊な家庭環境のリアル

──いつ頃から「手塚治虫」という父親の特別さを実感しはじめたのでしょうか?

手塚眞(以下、手塚)氏:かなり早い時期だったと思います。物心がついた頃には、父の仕事先に連れていかれることも多く、そうした体験を通して父の特別さを感じていました。

 たとえば、デパートなどで開かれるマンガの展示イベントに一緒に行くと、たくさんの人がサイン会に並び、父と交流している姿を目にしました。また、家に帰れば、そこがそのまま父の仕事場でもありました。出版社の方がひんぱんに出入りし、父と打ち合わせをしている様子もよく見ていましたので、ごく自然に「特別な存在なのだ」と理解していたのだと思います。

──手塚治虫さんはマンガの父であると、同時にアニメの父でもあります。

手塚氏:すべての始まりは、やはり父・手塚治虫にあると考えています。当時、子ども向けのマンガ雑誌にはほぼすべて連載を持っていましたし、彼の作品や活動をきっかけに、トキワ荘の人たち(藤子不二雄〈藤子・F・不二雄、藤子不二雄A〉、石ノ森章太郎など)も登場していきました。

 アニメについても同様で、最初に私財を投じて制作を始めたのが父でした。1963年にフジテレビ向けに作品を制作したことが、「テレビアニメ」の歴史の出発点になっています。アニメーターとしての仕事も、完全に自腹で取り組んでいたのです。

──手塚さんのアシスタントを務められていた伴俊男さんの著書『手塚治虫物語』(朝日新聞社)で、「宝塚から上京し、1953年にトキワ荘入居。都内を転々としながら、1960年8月に富士見台に400坪の土地に豪邸を建て、窓のないコンクリートのプレハブ建物からアニメスタジオが始まった」という話を読みました。これは、眞さんがちょうど生まれたころの話ですよね。

手塚氏:そこは少し誇張がありますね……。さすがに窓のない環境では、アニメーターも仕事ができないでしょう(笑)。きちんとした部屋でしたし、小さいながらも窓はありました。

 敷地は広く、周囲は広々とした農家や木造家屋が多い地域でした。その中に、鉄筋コンクリート造りのモダンな3階建ての家を建て、さらにそれを囲むようにスタジオを増築していったので、かなり目立っていたと思います。アニメのプロジェクトは、玄関横のガレージの上にある一室からスタートしました。

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──かなり多くの方が働いていたんですよね。家にはたくさんの人が出入りしていたのでしょうか?

手塚氏:家族が暮らしていた家の中には、マンガを執筆していたアトリエがあり、玄関には編集者が待機するための部屋もありました。裏口もありましたが、マンガのアシスタントもアニメーターも編集者も家族も、全員正面玄関から出入りしていました。本当に家の中はいつもにぎやかでしたね。

 20名くらいのスタッフがそこを仕事場としていて、最終的には家に隣接した2つのスタジオと離れに3つも新たに作って、ピークは5つのスタジオを持つ制作会社になりました。規模だけ見れば、虫プロの最大期は東映スタジオ(大泉にある1万平米の東映アニメーションスタジオ)よりも大きかったかもしれません。

 虫プロ(1961年設立のアニメーション制作会社)も、虫プロ商事(1966年に版権部・出版部・営業部を独立した会社)も、後に手塚プロ(1968年設立のマンガ制作プロダクション)となるマンガ制作室も全部「家の中」にあったんです。

──職住接近とはいえ、当時日本のトップだったマンガ制作会社、アニメ制作会社、ライセンス会社の3つすべてが「家の中にあった」というのは、眞さんの生い立ちがいかに特別だったかを物語っていますね。有名な方々もよく家に出入りしていたのでしょうか?

手塚氏:出入りしていた人の中に有名な方もいたのだと思いますが、当時まだ幼かった僕には、誰が有名人なのかは分かりませんでした。ただ、僕が生まれて初めて「こういう職業があるんだ」と認識したのは、「編集者」という存在でした。それほど当たり前の光景として、マンガ家だった父のそばにはいつも編集者の方がいたのです。

 そうしたものづくりの現場のただ中で、僕は育ちました。

虫プロ倒産…家族の暮らしはどうなった?

──虫プロは最盛期で500人ほどの従業員が在籍していたと聞いたことがあります。月300ページ分も連載していたと言われるほど多忙なスケジュールを送られていた手塚治虫さんは、どうやってあれだけの規模のスタジオのマネジメントされていたんでしょうか?

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