- 2026/08/19 06:10 掲載
『Bバージン』山田玲司が今明かす…師匠・江川達也に学んだ「完璧なヒットの方程式」(3/4)
絶望期から這い上がるキッカケとなる…“ある人からの助言”
――この苦しかった時代に、尊敬していた手塚さんの死(1989年)は影響しましたか?山田氏:はい、大きかったですね。1989年は僕にとっての2人の師がどちらも亡くなったタイミングでもあるんです。手塚先生とサルバドール・ダリ。失意のどん底みたいだった状態の中で、連載も獲れず、僕はやぶれかぶれで自費出版をしたり個展を開いたりというのを1989年にやっています。
――この時期、山田さんは『理想主義者の屍に乾杯』を自費出版して、出版社に送り付けたり(本作の冒頭の序文には「俺は今、出版されているすべての漫画をクソだと思っている」と書かれている)、自分で個展を開いたりされています(個展のタイトルは「産業アートにツバを吐け」)。
山田氏:いわゆる黒歴史ですね(笑)。でも、その個展が次のチャンスにつながるんですよ。
後にコミティア(自主制作漫画誌の展示即売会)を立ち上げる漫画情報誌『ぱふ』の編集長の中村公彦さんが、その個展を見に来てくれてね、それで僕に言うんですよ。「自分の中のナイフを先に見せちゃダメだよ」ってね。一度やさしく読者を抱えこんで、安心した読者が近づいてきてくれたところで、ブスッと刺すんだよ、とね。最初から言いたいことをむき出しにした漫画を描いていた当時の僕は、ハッとさせられましたね。
その言葉を受けて、ナイフを隠して、97%はエンターテイメントで包みながら、残りの3%だけ、パンク精神を帯びた自分の中の本音(ナイフ)をちらつかせれば良いのか…と。まさに、手塚先生の言葉でいう「テーマはさりげなく、シノプシスは丁寧に」ですよね。
それまでの自分を振り返ると、アシスタント先の江川先生は堂々と「パンチラを描くぜ!」みたいなノリで作品作りをしていたけど、それを見ながら僕にはどこかで照れがあったなと。美大にいたのもあってか、アート畑のつまらないプライドもあって、エロ漫画には振り切れないという恥ずかしさもあったんだと思います。
こうして、自分の中の考え方とかが整理されて、ようやく向かうべき道が見えてきた感じでした。森山塔(=山本直樹、1960年~、『レッド』など)とか、先進的なエロ漫画やラブコメが流行していた時代で、自分もそういうエンターテイメントに振り切った作品を描くんだ、と決めたわけですね。
小学館で大ヒット…『Bバージン』誕生のヤバすぎる裏側
――そこで方向転換したのが、ブレークのきっかけだったわけですね。山田氏:最初は宝島社の『イデオロキッズ』や『駿河台ブレイクダウン』です。それも先ほどの自費出版を送りつけたことがつながってます。宝島には救われましたね。その後にヤンサンで始まった連載が『Bバージン』で、僕にとっての最大のヒット作になります。
――具体的に、どうやって『Bバージン』連載に至るんですか?
山田氏:その1989年の展示会で覚悟を決めて、1990年に連載準備に入るんですけど、僕が結果的に連載のチャンスをもらえることになるのがANGEL事件です。
当時の『ヤングサンデー』は、遊人さんの人気が非常に高く、『ANGEL』が看板作品の一つでした。しかし、性描写を巡る批判を受け、『ヤングサンデー』は不健全図書の代表例として国会で取り上げられるほど大きな話題になっていました(注1)。
彼が抜けたスペースをどうにかして埋めないと、と雑誌が混乱していたタイミングで、ちょうど僕が入り込む形になるんです。
実はその直前まで、講談社の『ヤングマガジン』で『Bバージン』の企画を立ち上げていたんです。でも全ボツを食らってしまって。怒り心頭だった僕は、腹が立ったのでそのまま講談社のコピー機で原稿のコピーを取って、その足で小学館に持っていきました(笑)
小学館では1度連載を断っているので謝罪する覚悟で行ったわけです。そうしたら、小学館の対応がすごくいいんですよね。「山田くん、ひさしぶり!」って。編集部の人が明るくてチャラいんですけど、ノリも合う。「すいませんでした、これ見てください!」と原稿を渡したら、「いいじゃん! 新年1号からやって!」と、あっさり連載が通ったんです。
1巻36万部の絶頂期…心の支えは「井上雄彦」だったワケ
――小学館のノリがよく分かるお話ですね。当時、『Bバージン』はどのくらい売れていたんですか?山田氏:売れていない時期にたまりにたまった鬱屈を吐き出したのが、ちょうど『Bバージン』が始まる1991~1992年頃ですね。
今振り返ると、自分の漫画家人生で1番良かった年を挙げろと言われれば、僕はこの1992年を挙げるかもしれません。1巻30万部超え、1番ピークは36万部、出ましたかね。その後は下がって10万部とかでしたけど。
――やっぱり「幸せの絶頂」みたいな気分になるんですか?
山田氏:他のヤツと比べなければね(笑)。自分のほぼ同期で、年が1つ下に、井上雄彦(『SLAM DUNK』『バガボンド』など)がいるんです。
彼と一緒にバスケをしていたときに、「初版はどのくらいいってるの?」って聞いたら、正確な数字だったかはわかりませんが、そのときの『SLAM DUNK』って1巻230万部くらい出ていたらしいんですよ(注2)。
彼とはよく遊んでいたんですけど、彼のように純度が高い作品を、妥協することも世の中に媚びることもなく、ひたすらに描き続ける存在というのは、ある意味「心の支え」にもなっていますね。
彼がいるから「我々の世代として残すものはもう井上がやればいい」とも思ってましたしね。ただ同時に、僕も登り調子だったんで「まだまだ始まったばかりだ!」みたいな気持ちだったのもたしかですね。2作目、3作目ともっともっといけると思ってましたね。 【次ページ】心の中の“忌野清志郎”が爆発して誕生した…“ある作品”
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