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グローバルビジネスの最先端を走っているとも言える商社。中でも三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、住友商事、丸紅、豊田通商、双日ら日本の七大総合商社は、世界の商社ランキングで業界トップテンにすべて入り、上位6位までを日本勢が独占している状況だ。商社は日本ならではの存在と言われがちだが、世界でも「Sogo shosha」と呼ばれ、そのビジネスモデルには注目が集まることも少なくない。商社はなぜ生まれ、どのように発展を遂げてきたのか。そして現在でも変わらない強さの源泉はどこにあるのか。今回は総合商社を評価する指標の1つとして、給与ランキングも紹介する。
日本の商社の父は、あの坂本龍馬?
世の中には自称、他称を含めて、「商社」と呼ばれている企業があまたある。そのほとんどは、BtoBの商取引をしている卸売業だろう。しかし、狭義の商社とは貿易、すなわち、国際取引を手がける卸売業(貿易商社)のことを指す(実は、商社の取引額の平均約6割が国内取引。外国間で取引する三国間貿易もある)。したがって、国内取引のみの卸売業は、商社の範疇からは外れることになる(我が国では、日本貿易会正会員が本格的な商社とされている)。
商社のプロトタイプとも言える貿易商は人類史上、国家が成立した時代から存在した。中世ヨーロッパでは、中国に渡ったマルコ・ポーロのように、イタリア商人が世界を股にかけて活躍。さらに、7つの海を支配するようになった英国は1600年、東洋貿易を目的とした国策会社「東インド会社」を設立した。同社は貿易だけでなく、植民地開発事業などにも深く関与していた(なお、オランダやフランスの東インド会社もある)。
そのほか、世界的に有名な商社としては、アジアとの貿易で成長し、幕末の日本にもいち早く進出した英国発祥のジャーディン・マセソン、「穀物メジャー」として世界の食品市場を左右する米国のカーギルなどがある。
日本の“商社の父”と言われているのが、皆さんご存知の坂本龍馬だ。慶応元年(1865年)に龍馬が長崎で設立、のちに「海援隊」に発展した「亀山社中」こそ、商社の源流というわけだ。
純然たる商社ではなかったが、資金を集めて出資者に利益を配分するという近代的企業の形態も持っていた(もちろん、鎖国前の日本にも、戦国時代の呂宋助左衛門のような貿易商はいた)。ちなみに、「商社」の名称を日本で初めて使ったのは慶応3年(1867年)、江戸幕府が貿易を目的として、現在の「兵庫商社」とされている。
ひと口に商社と言っても、さまざまな種類があるが、大きくは総合商社と専門商社に分かれる。専門商社には、欧州、アセアン、中東といった具合に取引エリアを限定した地域特化型の専門商社、食品、ファッション、金属といったように取引カテゴリーを限定した業種特化型の専門商社がある。さらに、「欧州ファッションの輸入」に絞り込んだような専門商社も存在する。一方で、商社の代名詞ともされているのが総合商社である。
日本の総合商社は商社を超えた「Sogo shosha」
総合商社はよく、日本特有の業態だと言われる。実際には、英国(先述したジャーディン・マセソンなど)や韓国などにも総合商社はあるのだが、日本の総合商社のような経営規模、さまざまな機能を誇る企業は数えるほどだ。時価総額を基準にした商社のグローバルランキングは次のとおりだが、現在7社と言われる日本の総合商社がすべてトップテンに入っており、しかも、上位6社を独占している。日本の独壇場である。
日本の総合商社は、全世界を対象にして「ラーメンから飛行機まで」と言われるように、ありとあらゆる物資を取引する。しかも、ビジネスの領域は貿易に止まらず、資源開発といった川上分野から、小売店チェーンの運営といった川下分野まで幅広い。
さらに、ハードウェアだけでなく、ソフトウェアのビジネスも取扱う。都市の再開発や社会インフラの整備といったデベロッパー事業、ITソリューションの導入サービス、ファッションブランドのライセンス供与やハイテク特許の実用化といったマッチングビジネスも手がける。
莫大な資金力を生かした与信管理機能、金融機能まで有し、必要に応じて企業への投資、経営参画も行う。まさに、儲かることなら何でもする「巨大な何でも屋」なのだ。
商社は、英語では「Trading Company」であるが、もはや商社の域を超えた日本の総合商社は、英語でも「Sogo shosha」と呼ばれている。
日本でなぜ総合商社が発達したのか
それでは、総合商社はなぜ日本で発達したのか? それにはいくつかの理由が考えられるが、大きかったのは日本が資源小国であり、近代化が遅れていたことだ。
明治維新以降の日本は、欧米列強をキャッチアップするため、殖産興業政策を急ピッチで進めた。日本が経済成長するには、原材料を輸入して工業製品に加工、輸出する「貿易立国型モデル」が適合していたが、近代工業が未熟だった当時、メーカーに代わって貿易を取り仕切る商社が不可欠だった。
しかも、明治初期の日本の貿易は外国商社に牛耳られており、日本の商社の育成が急務だったが、国際的な知見を持ち、グローバルビジネスを担える人材は限られていた。
そこで、三井や三菱などの財閥は、貿易部門を集約し、当時のエリート中のエリートだった大学や高等商業学校の卒業生をそこに投入した。財閥は繊維、金属、化学、機械とさまざまな産業に進出、貿易部門はグループ企業の原材料の輸入、工業製品の輸出を一手に引き受け、財閥の成長とともに巨大化した。それが、三井物産や三菱商事をはじめとする今日の総合商社につながったのである。
実は、そうした構図は新興国にも当てはまる。例えば、韓国は戦後、日米欧のような先進国を目指し、国を挙げて財閥系総合商社の育成に乗り出している。グローバルランキングで、中国や韓国の総合商社がなぜランクインしているのかがうなずけよう。
一方で、欧米の総合商社が日本ほど発達していないのは、メーカーが商社に先行して発達、国際化していたため、商社が活躍する余地が少なかったと考えられる。また、欧米でも英国のような貿易立国は一部であり、米国のような資源大国では商社の必要性が低かったという事情もあったろう。
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