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  • 2020/06/30

実は挫折ばかり「ウォルト・ディズニー」が作品に託した夢とは

連載:企業立志伝

コロナ禍で臨時休業していた施設が徐々に再開し始めてきました。再開が待ち望まれていた内の1つ「東京ディズニーリゾート」が7月1日、いよいよ営業再開します。最初のディズニーランドがカリフォルニアで開園したのは1955年。つくり上げたのは「ミッキーマウス」の生みの親、数々のアニメーション映画を世に送り出したウォルト・ディズニー氏です。幾度もの挫折を経験しながら、自らの創造力を信じて突き進み、巨大企業ウォルト・ディズニー・カンパニーを築いた同氏の人生をたどります。

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

1956年広島県生まれ。経済・経営ジャーナリスト。慶應義塾大学卒。業界紙記者を経てフリージャーナリストとして独立。トヨタからアップル、グーグルまで、業界を問わず幅広い取材経験を持ち、企業風土や働き方、人材育成から投資まで、鋭い論旨を展開することで定評がある。主な著書に『難局に打ち勝った100人に学ぶ 乗り越えた人の言葉』(KADOKAWA)『ウォーレン・バフェット 巨富を生み出す7つの法則』(朝日新聞出版)『「ものづくりの現場」の名語録』(PHP文庫)『大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ』(ビジネス+IT BOOKS)などがある。

大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ (ビジネス+IT BOOKS)
・著者:桑原 晃弥
・定価:800円 (税抜)
・出版社: SBクリエイティブ
・ASIN:B07F62BVH9
・発売日:2018年7月2日

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今なお、夢を与え続けるウォルト・ディズニー氏の半生を振り返る
(Photo/Getty Images)

貧しく厳しい生活、3人の兄たちは家出

 ウォルト氏は1901年、父イライアス・ディズニーと母フローラ・コールの四男としてイリノイ州シカゴで生まれています。元々フロリダで農業を営んでいた父親は、結婚を機に農場を売ってホテルを購入しますが、不況により廃業。どこか新しい土地に移って人生を切り開こうと移住したのがシカゴでした。しかし、そこでの生活も長続きせず、一家は1906年にミズーリ州マーセリーンに移住。再び農業を始めています。

 ウォルト氏はシカゴでの記憶はほとんどなかったようですが、マーセリーンに関しては「広い芝生の前庭がある、それは美しい農場でね」(『ウォルト・ディズニー』p53)とのちに振り返っています。

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(Photo/Getty Images)
 しかし、生活はあまりに厳しいものでした。仕事がうまくいかない父親は、始終、子どもたちにつらく当たったため、2人の息子(ハーバートとレイモンド)は家出をしてしまいます。その影響もあり、のちに共に起業することになる兄のロイと末っ子のウォルト氏は、父親が始めた新聞配達を無給で手伝わされていました。

 1912年、ついにロイも家を出てしまい、ウォルト氏に対する父親の要求はさらに厳しくなります。幼いウォルト氏は新聞配達などの疲れもあり、学校の成績もパッとしたものではありませんでした。ただ、漫画への好奇心は旺盛で、小学校の同級生が自分の描いた漫画を見て噴き出すのを見て「漫画家になろう」と思い始めていたといいます。


漫画家を夢見た青年時代

 1917年、父親がシカゴのゼリー製造工場の経営権利を取得したのに伴い、ウォルト氏もシカゴの高校に入学。そこで美術の才能を発揮し、校内誌『声』にウォルト氏の漫画が掲載されることとなりました。

 しかし、当時は第一次世界大戦(1914~1918年)のさ中であり、愛国心に駆られたウォルト氏は年齢を1歳ごまかして陸軍に志願。赤十字の衛生兵として休戦後の1918年12月、フランスへ渡ります。

 当時のパリはまだ戦時中のような状態で、ウォルト氏たち兵士の食事は豚肉と豆の煮込みばかり、ベッドは固く、新聞紙を体に巻き付けてやっと眠れるような日々でしたが、そこでの1年間を通してウォルト氏はたくましく成長。それは両親が「変わりように驚く」ほどのものだったといいます。

 父親は帰国したウォルト氏が自分の工場で働くものと決めつけていましたが、ウォルト氏の口から出たのは「僕はね、漫画を描くアーティストになりたいんだ」(『ウォルト・ディズニー』p80)という夢に対する宣言でした。

最初の起業は1カ月で休業

 1919年、銀行に勤務していた兄のロイを頼ってカンザスシティーに移ったウォルト氏は、新聞で漫画を描く仕事を探しますが思うようにいきませんでした。見かねたロイの紹介で、ぺスマン=ルービン・コマーシャル・アートスタジオに職を得たウォルト氏は懸命に働きますが、その年の終わりには契約を打ち切られてしまいます。

 翌1920年、ウォルト氏はアートスタジオで知り合ったアブ・アイワークス氏(ディズニー創業期のアニメーターで、ミッキーマウスを共につくり上げた)を誘って「アイワークス・ディズニー」を設立しますが、わずか1カ月で閉店休業に追い込まれます。理由は、生活のためにウォルト氏がカンザスフィルム社にフルタイムのアニメーターとして採用されたためでした。

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(Photo/Getty Images)
 休業に追い込まれたものの、カンザスフィルム社で短いアニメーションを製作するうちに、ウォルト氏の興味が漫画からアニメーションへと移っていったことが、のちのアニメーション映画の製作へとつながっています。

 アニメーションに夢中になったウォルト氏は、ガレージをスタジオに改造。借りたカメラを使ってオリジナルの短いアニメーションをつくるようになります。自分の作品に自信を持ったウォルト氏は、再び自分の会社「ラフ・オーグラム・スタジオ」を設立。アイワークス氏をはじめとするアニメーターも雇い、本格的なアニメーションづくりに取りかかります。

 しかし、十分な収益を上げることができず、アニメーターたちは次々と退社。ウォルト氏も会社を畳み、再起のためにハリウッドへと向かうことを決めます。1923年のことです。

ハリウッドへ、仕事がなければ作ればいい

 当時のハリウッドは、映画製作者たちが進出し始めてまだ10年と経っていませんでしたが、それでもいくつもの大型スタジオが建ち並ぶ「夢の都」となり始めていました。ウォルト氏は、ロサンゼルスに暮らす叔父の家を拠点に、スタジオへの就職を目指しますが思うようにいきませんでした。夢を諦め、別の仕事を探すことも視野に入れると思いきや、ウォルト氏は違いました。のちに「世の中には2種類の人間がいる」と語っています。

「仕事がなくてくじける人間と、仕事がなくても自分は何かできると信じる人間だ」(『アメリカン・ドリームの軌跡』p284)

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(Photo/Getty Images)
 ハリウッドのスタジオに自分の居場所がないなら、自分で居場所をつくればいいと考えたウォルト氏は、ロイと一緒に「ディズニー・ブラザーズ」を設立。カンザスシティー時代にやっていた短編アニメーションづくりに再び乗り出します。

 これがのちの「ディズニー」の実質的な設立と言われています。

【次ページ】「アリス・シリーズ」で成功も、会社・スタッフ・キャラクターもすべてを失う

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