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  • 2016/08/19 掲載

ポケモンGOは「枯れた技術の水平思考」? 背景にある”任天堂のDNA”

神田敏晶の歴史で読み解くシンギュラリティ時代

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この夏、『ポケモンGO』の話題が日本を席巻している。アプリ自体の開発や運営は、グーグル、任天堂、株式会社ポケモン、フジテレビの出資からなる米Niantic社が行っているが、ポケモンGOの力学を整理してみると、任天堂という会社が影響力を強く持っていることは間違いない。そこで、改めて任天堂という会社の歴史を振り返りながら、「多角経営の失敗」「枯れた技術の水平思考」といった連綿と続く任天堂のDNAがポケモンGOにどのような影響を与えているのか、探ってみる。

ITジャーナリスト 神田 敏晶

ITジャーナリスト 神田 敏晶

ITジャーナリスト、KandaNewsNetwork代表。神戸市生まれ。ワインの企画・調査・販売などのマーケティング業を経て、コンピュータ雑誌の編集とDTP普及に携わる。1995年よりビデオストリーミングによる個人放送局「KandaNewsNetwork」を運営開始。早稲田大学大学院、関西大学総合情報学部で非常勤講師を兼任後サイバー大学客員講師、ソーシャルメディア全般の事業計画立案、コンサルティング、教育、講演、執筆、政治、ライブストリーム、活動などを行う。


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ポケモンGOのブームを任天堂のDNAから捉える

ポケモンGOがスケープゴートにされるワケ

 「ユーザーの不法侵入でポケモンGOに集団訴訟」「ポケモンGO北海道で122人補導」「ポケモンGO女子高校生が体触られる被害も 群馬」──

 どんな些細なことでも、ポケモンGOを絡めることによって、一瞬にしてニュースとして伝搬される。ネガティブなニュースも多い。これは、ポケモンGOが憎くて社会から抹殺しようとするのではなく、今までに社会に存在しなかった『新しい何か』に対しての、我々の"無知"への恐れと"未知"の世界への自衛のための行動衝動に近い。

 新たな技術革新に対する人間の反発アレルギーは、現在に始まったわけでもない。近頃よく耳にする「シンギュラリティ(技術的特異点)」という言葉は、人工知能が我々人類の知能・理解を超えてしまった時に訪れる世界のことを指すが、技術が人類を脅かすという点では、過去の歴史の中においても何度も出現した事象である。社会は今までの理解を超えた新たなムーブメントに対して、臆病であり警戒心が強いものである。

 しかし、ポケモンGOの仕組みは、恐れるほど新しいものだろうか? ポケモンGOの開発と運営を担うのはグーグル、任天堂、株式会社ポケモン、フジテレビの出資からなる米Niantic社だが、株式会社ポケモンは任天堂が32%のシェアホルダーであることも鑑みると、任天堂の影響力は非常に大きい。そして、任天堂という会社のDNAを紐解くと、ポケモンGOが生まれた背景も見えてくる。

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『ポケモンGO』の背景にある主な企業をマップした

任天堂「花札」の成功の裏にあったタバコ屋

 任天堂は、元々「花札」や「トランプ」を販売してきたメーカーだと言われるが、石灰問屋やセメント事業からのスタートだった。1889年(明治22年)山内 房治郎(やまうち・ふさじろう)が、石灰問屋を経営しながら、「花札」というゲームの新規事業に取り組んだのだ。それは房治郎が工芸家でもあったことから「花札」の絵柄のデザインに特別なこだわりを持っていたからだった。

 そして、任天堂が新規事業「花札」のリーディングカンパニーとなったポイントは、「明治の煙草王」村井 吉兵衛(むらい・きちべえ)とのタバコチェーン店での交渉が成功したからだった。吉兵衛は、アメリカで流行していた紙巻き煙草がキセルに変わると見込み、日本初の両切り紙巻き煙草「サンライス(1891年)」として米国流のマーケティングでヒットさせた。そして、日本全国にタバコ販売の流通ルートを築いたのだ。任天堂の創業者、房治郎はそのルートに「花札」や「トランプ」を卸すことにより、日本全国どこでも任天堂の商材を手にすることをできるようにしたのだ。

 吉兵衛の民営タバコ店チェーンは、日露戦争(1904年明治37年)の財源確保のために、国家専売制となり、その補償金で村井財閥を興した。タバコ店が専売制になったあとも、任天堂の花札商材や専売タバコチェーンで販売は続けられた。そして貴重な戦費を集めるためのタバコ店の売上を支えた。社会の動静に影響を受けないビジネスモデルは重要だった。また、当時の日本でのパチンコ店は、戦時中は「不要不急の産業」として前面禁止されていたので、花札やトランプは庶民ギャンブルや遊興として追い風が吹いていた。任天堂の花札の新規事業を支えたのは、日本全国のタバコ店で手に入ることと、手の届くギャンブルだったことだ。

山内 溥の多角経営の失敗史

 山内 房治郎の曾孫にあたる、山内 溥(やまうち・ひろし)は山内 房治郎商店三代目として、22歳で任天堂の販売子会社「丸福かるた販売」の代表となる。当時、博打の道具としての花札やトランプを、家庭用に変えた出来事がある。それが、紙製のトランプをプラスティック製(1953年)に変えた技術イノベーションと、ディズニーキャラクターのライセンスによるトランプ販売(1959年)だ。ディズニーキャラクターとプラスティック製のトランプは、家庭用のゲームとして日本中に浸透していく。1960年代、任天堂のトランプは業界ナンバーワンとなった。キャラクター力はライセンス料を払ってでも使えることを確信する。

 しかし、アメリカ最大手のU.Sプレイング・カード社を視察した時に、トランプだけではちっぽけなビジネスになってしまうと考え、山内 溥は、多角経営に乗り出す。ところが、この多角経営がノウハウ不足などでことごとく失敗。1964年には倒産寸前の危機を迎えた。1965年に、社員の横井 軍平が趣味で作っていた「オモチャの手」を見た山内 溥は、「ウルトラハンド」という製品名で売り出す。これがヒットし、倒産の危機を免れる。

 「ウルトラハンド」をきっかけとして、デパートのオモチャ売り場に任天堂は、販路を築く。1970年には「光線銃SP」もヒット。太陽電池と豆電球利用という、横井 軍平の「枯れた技術の水平思考」が貢献した。しかし、光線銃SPの発展形として「レーザークレー射撃場」を全国展開するが、「第一次オイルショック(1973年)」で再び、任天堂は、倒産の危機を迎える。また、1978年にタイトー社のアーケードゲーム「スペースインベーダー」が空前のヒットとなり、アーケードゲームの世界でもタイトー社に席巻されてしまう。

【次ページ】 横井 軍平の「枯れた技術の水平思考」が倒産危機を救った

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