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- 2020/04/27 掲載
島津製作所の創業者、「日本初」尽くめの発明家“親子”が残したもの
連載:企業立志伝
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はじまりは家業の仏具製造
初代 島津源蔵氏は1839年、京都で仏具の製造をしていた清兵衛の次男として生まれています。父に従って家業を修めた初代 島津氏は21歳で分家、独立して仏具の製造を始めますが、家の近くにある京都舎密局(せいみきょく)に出入りするようになりました。ですが、生来の新しもの好きの初代 島津氏は、足しげく通うことで、学者や役人たちに顔を覚えてもらうほどになりました。
初代 島津氏は学問こそありませんでしたが、仏具製造という京都の伝統産業に従事し、金属加工や組み立ての技術を持っていました。その腕を買われて、初代 島津氏が手がけるようになったのが実験用の理化学器械の製造です。これが島津製作所の出発点(1875年創業)となっています。
1枚の絵から国内初の有人軽気球を作る
そこで京都府学務課長の原田千之助氏は、外国人の手を借りずに京都で軽気球をつくり、京都の空に揚げれば科学思想の啓蒙(けいもう)にも役立つと考えます。
これを槇村知事に提案したところ賛同を得て、理化学器械の製造を行っていた初代 島津氏に依頼することになったのです。
とはいえ、初代 島津氏は軽気球など見たこともありませんでした。渡されたのは外国の雑誌に掲載されていた1枚の絵だけです。図面もない中で、初代 島津氏はわずか数カ月で軽気球を完成。1877年に日本で初めての有人軽気球の飛揚(高さ36メートル)に成功したのです。軽気球の飛揚は大人気で、米一升が五銭強した当時に、一般が三銭、生徒は一銭五厘という観覧料にもかかわらず、4万8000枚の観覧券はすべて売り切れたといいます。
「西洋にかぶれて、西洋鍛冶屋になってしまった」(『小説・島津源蔵』p6)と陰口を叩かれていた初代 島津氏の快挙であり、晴れ舞台でした。
「電気の時代」に生まれた二代目
その後、初代 島津氏は1878年に京都府が招聘(しょうへい)したドイツ人科学者ゴットフリード・ワグネル氏の依頼により、さまざまな理化学器械を製造。1882年には製品カタログ「理化器械目録表」に、当時の小中学校の科学教育に必要な110点もの物理器械などを掲載するなど、いかなる注文にも応じることのできる技術力を身につけています。そんな父親を見て成長したのが梅次郎(二代目 島津氏。1869年生まれ)です。梅次郎は、初代 島津氏が1894年に55歳で亡くなった後、二代目 島津源蔵を襲名。理化学器械製造にかける初代の熱意を継承して、弟の源吉氏、常三郎氏とともに家業を企業として発展させ、今日の島津グループの原型をつくり上げ、事実上の創業者とも言われています。
二代目 島津氏が10歳の頃は、トーマス・エジソンが白熱電灯の実験に成功して、発電機から配電盤に至る電気の全機器体系を築き始めた頃です。「電気の時代」の幕開けでした。
二代目 島津氏は、初代の考え方もあったのでしょうか、学校へはほとんど行っていませんでしたが、初代のそばでものづくりには触れ続けていました。当然、電気に対する関心は強く、「俺も何とか電気というもんを使うた機械をこしらえてみたい」(『小説・島津源蔵』p24)と考えるようになりました。
そこで、父親に頼んで、フランスの物理学教師ガノー氏がフランス語で著した物理学の教科書を京都府の学務課から借りてもらい、その本を手に舎密局へ通っては、学者たちに教えを請うことで知識を身に付けていくことにしたのです。
知識は本から学び、技術は父親に学んだ二代目 島津氏は、1884年に16歳でウィムズハースト式誘導起電機を製作して、翌年の京都勧業博覧会に出品。文部大臣の森有礼氏から激励を受けています。
【次ページ】父の死で決意、国内初のX線装置開発
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