- 2026/03/06 掲載
手塚眞が語る「父・手塚治虫」にまつわる伝説の真相、息子も驚く“天性のスゴイ能力”(3/3)
800年もの歴史がある? 手塚家は“ある職業の家系”
──手塚家の家系は、どのくらいさかのぼれるのでしょうか。手塚氏:この点については、NHKの歴史番組で詳しく取材していただき、裏付けの取れた資料として残っています。
家系図によると、手塚家はおよそ800年に渡ってさかのぼることができます。江戸時代には水戸藩に仕え、大奥番の医師を務めていたこともあります。さらにさかのぼると、武田信玄方の家臣だった時代もあるといいます。
普通の家庭では、ここまで徹底的に家系を調べることはなかなかありませんよね。実は、歌舞伎の『実盛物語』も、手塚家の歴史に関わる物語なんです。
家系的には医者の多かった手塚家なので、母は僕を医者に育てるつもりだったんです。父の仕事の苦労をずっとそばで見ていた母は、それもあり、僕がその後、映画監督を目指すことには失望していましたね(笑)。ただ、あれよ、あれよと日芸に入学して、なし崩し的にこの業界に入ることになりました。
怒ったりする…? 手塚治虫の知られざる性格
──『ウルトラQ』を観ている眞さんに対して、お母さまが「お父さんのアニメを観なさい」と言ったときに、温厚な治虫さんが珍しく怒って「子供が観たいものをみせろ」と発言したという逸話が残ってます。手塚氏:父のアニメもちゃんと結構観ていたんですけどね。僕にとっては父のマンガやアニメは「いつでも観れる作品」という感じで、それが放送されている時間帯にわざわざ選ぶ必要がなかったんです。それで父のアニメがやっている“裏番組”で、その時しか観れない『ウルトラQ』を観ていたわけです。
マンガも同じで、全部家にあったので読んでいました。父だからとあえて避けるわけではなく、ほとんどの作品に目を通してます。
──偉大過ぎる父への反発はなかったのでしょうか?
手塚氏:反発はなかったですね。これは父の性格のおかげだと思います。皆さんが見ている「手塚治虫」がいるじゃないですか。もうあのまま、家にいる感じなんです。裏表がなくて、怒られた経験もほとんどない、穏やかないい父親でした。そういう意味では、普通の家庭でしたね。
──「怒られたことがない」というのは逆に珍しいと思います(笑)。
手塚氏:一度だけ覚えているのは、父の書斎に置いてあった蔵書にいたずらで落書きしちゃったときです。
パラパラめくっていたら右下にパラパラマンガになっている落書きがしてあって、父が描いたものだと思い、自分も真似して同じようにパラパラマンガを書き足していったんです。その本はもう手に入らない本人の貴重なマンガ本だったみたいで、その時に、はじめて怒られましたね。
後から分かったのは父が描いたんじゃなくて、祖母(父の母親)が楽しませようとして描いていたものだったみたいですね。
──「マンガは俗悪」と言われたあの時代にして、なんと寛容な母親だったのでしょうか…。治虫さんも200冊も家にマンガを貯めていたので、うらやましがってガキ大将やいじめっ子がゾロゾロやってくるようになる。「ぼくの母は、なぜかマンガを好きなだけ読ませてくれたのでした。このことが、いじめられっ子脱出の契機になったのです」とマンガが子供時代を救った手段になった話が語り継がれています。
手塚氏:僕の時代もいじめっ子はいたんですよ。成蹊というおぼっちゃん学校だったのでそれほどひどい感じではなかったのですが、何人かはいました。それでも僕は文化祭やイベントで企画したりアイデアを出すようなタイプで、なんとなく一目置かれていたのもあってか、一度もいじめられたりといったことはなかったですね。
これは最近でもなんですけど、僕は「呼び捨てされたこと」がないんですよ。仲良い友達は親しみを込めて「まこと」「まことちゃん」と下の名前呼びですが、どんな怖い先輩も「手塚」にはさんづけ。誰でもが呼び捨てされるような有名なゴジさん(長谷川和彦氏:1946-、『青春の殺人者』『太陽を盗んだ男』など)も、僕にはなぜか「手塚くん」でした(笑)。
──それは「手塚」へのリスペクトでしょうね(笑)。そしてマンガが子供の玩具的だった治虫さん時代と比べて、もう1970年代はステータスを獲得していたという時代背景もあるかもしれませんね。
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