- 2026/08/17 06:10 掲載
【必読】漫画もYouTubeも成功……漫画家・山田玲司の「メタ思考法」が仕事に効く理由(2/3)
10歳で漫画家を志望?山田玲司のバイブルだった“ある本”
山田氏:10歳頃からマンガは描いていましたね。手塚治虫先生の『マンガの描き方』(1977年)がバイブルだったので、その頃にはマンガ家になろうと思っていました。
そうやって漫画には夢中になれましたが、勉強は好きではありませんでした。僕の場合、親一族がみんな高学歴で出来すぎているんです。議論では到底勝てない中で、僕だけが劣等生。一族の中で唯一、僕だけ高学歴ではないですよ。受験もうまくいかないのに、父は父で「受かるやつがいるのに、なんで受からないんだ」と詰めてくるわけです。それでも、なぜかそんな父が好きだったんです。
――ご一族では、芸術家やマンガ家のような経歴の方はいらっしゃるのでしょうか?
山田氏:親父の母方が、滋賀県にルーツを持った変わり種の多い一族でしたね。アーティストはいないけど、反戦活動家から学者から、どうぶつ社という出版社の社長だったりね。
僕の遺伝子の4分の1は、その変わり者の部分が影響しているのだと思います。ただ、家庭円満、豊かな愛情あふれる、いわゆる「カードが良かった」家庭なのに、結果を出せなかったら本当に僕がダメだということになります。そういうプレッシャーはありました。
中学3年の転換点、衝撃を受けた“あるプロ漫画家の生原稿”
山田氏:秋田書店ですね。はい、それは事実です。編集長も時間があるから取り合ってくれたけど、正直。お客さん扱いでしたよ。「良かったら見学してく? 思い出作って、帰りなよ」みたいな感じです。
それでも、そこで初めてプロの生原稿を見るんです。しかも手塚先生の『ドン・ドラキュラ』(1979年、週刊少年チャンピオン)なんですよね。同じような道具を使っているのに全然レベルが違う。紙はぺらっぺらで、自分が使っているのと大差ないんです。それでも、絵として見たときに「こんなの絶対描けない」というようなレベルでした。
――それは経験として大きいですね。まさにその30年前、藤子不二雄さんもデビュー時に、16ページの原稿を持っていった手塚治虫先生から「1000ページ描いて600ページをボツにした」という『来るべき世界』の原稿を見せられて愕然としたことが、漫画家の道に覚悟を決めるタイミングになった、という話もあります。
山田氏:本当にそうですね。僕のバイブルである手塚治虫先生の『マンガの描き方』にも「ひたすら描けばチャンスは勝手にやってくる」「同業者や編集者とつるむな」と書いてありましたが、そこから漫画家になるぞと覚悟を決めて、「月1作、必ず完成原稿を描ききる」という自らに課した修行のようなことを続けていましたね。SF、ラブコメ、不条理モノ、4コマ、なんでも描きました。
――漫画家を目指している人は周りにはいなかったんですか?
山田氏:周りにはいなかったです。高校でも漫画研究会には所属していましたけど、ほとんどが“ただの読者”という感じでね。本当に漫画家になろうと目指していた友人には、小学校から高校まで出会わなかったですね。
僕は毎月ちゃんと完成原稿を描き上げているのに、周りのやつらはキャラクターの横顔のアップの絵だけを描いて、自分では漫画を完成させない。それなのに、プロの漫画を読んで鼻で笑って評論家気取りでいるんですよ。僕からすると、そういう「描かないくせに笑う奴ら」がどうしても許せなくて、「俺はお前らとは違うぞ」という強烈な反骨心がありましたね。
勉強は嫌い…それでも「俺は手塚をこえる」ヤンキー高校時代
山田氏:僕は脳みそのつくりがそもそもテストに向いてないタイプなんですよ。学校のテストって正解が1つしかないじゃないですか。たとえば、「空はなぜ青いのか?」という理科の質問があったとしても、「いや、青じゃないときだって、あるじゃん?」と考えてしまって、答えが出ないのにグルグル思考しちゃうタイプなんです。
今でも書類作業のような「正解のある仕事」は苦手です。ただ、そういう特徴がファインアート(純粋美術)の世界には向いていたんでしょうね。
だから高校の偏差値はヒドイもので、典型的な田舎のヤンキー高校でしたね(『美大受験戦記アリエネ』にも主人公が偏差値38で彼女に振られるシーンが出てくる)。そうした中でも、「俺は手塚を超える」と思ってひたすら漫画を描いていましたね。
――高校時代に「漫画家を目指す」というのは、ヤンキー高校の場合だと、イジメにあったりしそうですけどね…「オタク」として排斥されそうな…。
山田氏:そこはうまくやっていましたね。それは、母方の叔父の影響もあったかもしれません。叔父は、当時の言葉で言うと「みゆき族」(1960年代に東京・銀座のみゆき通りに集まった、流行に敏感な若者たち)なんて呼ばれてましたけど、人形町育ちらしく、とにかく遊び人の江戸っ子。そんな叔父にかわいがられたのもあって、僕自身はヤンキー気質の人間とうまくやるのも得意になっていたのかもしれません。
あと、そもそも僕は、いわゆる“オタク”という感じじゃなかったんですよね。高校から大学までバンドもやってたし、アニメは『宇宙海賊キャプテンハーロック』(1977~1979年)とかを見てましたけど、ハマっている、という感じでもなかったですね。
当時は、『カリオストロの城』(1979年)とか『宇宙戦艦ヤマト』(1974~1975年)などのアニメ黄金時代。自分の周りには、アニメ雑誌の『ファンロード』とかBL(ボーイズラブ)にハマっている女友だちもいましたけど、僕はマンガと音楽が中心でしたね。
――その当時、バンドはメジャーな趣味だったのでしょうか?
山田氏:僕の世代は、ミュージシャンが多いんですよ。みんなギターは持ってましたね。そうした時代で僕もバンドをやっていましたが、僕自身、マンガに比べると、音楽は最初から遊びでやると決めていたので、売れるために熱心に練習ばかりしていた、というわけではありませんでした。
当時、コピーした曲なんかで言えば、たとえば、アリス(谷村新司さんらのフォークグループ)やビートルズの曲なんかもやってました。ミュージシャンを志していたとしたら、筋肉少女帯やスチャダラパーみたいな音楽を目指していたと思います(笑)。
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