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- 2015/10/23 掲載
近藤正高氏インタビュー:タモリに学ぶ「戦後史」と「愛され力」
『タモリと戦後ニッポン』著者に聞く
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タモリは「つまらないもの」の代名詞だった
近藤氏:1990年代前半くらい、僕が高校時代の頃ですね。YMOのファンだったこともあって、80年代のサブカルチャーに興味を持つうちに、雑誌『広告批評』のバックナンバーを古本屋であさっていたような高校生だったんですが(笑)、1981年に掲載されたタモリのインタビューが面白かった。「タモリってこんなに面白い人だったんだ」と驚いたのがきっかけです。
──タモリのことをつまらないと思っていたんですか?
近藤氏:そうですね。当時のタモリは「つまらないもの」の代名詞でした。そういうイメージだったので、(ラジオの深夜番組の)『さくらももこのオールナイトニッポン』で紹介されていたタモリのレコードにも衝撃を受けました。さくらももことタモリってちょっと意外な組み合わせですけど、当時のさくらさんの夫で、『オールナイトニッポン』にはサポート役で出てた宮永正隆という人が、大学時代に「タモリライフ研究会」という会に参加するほどタモリフリークだったんですよ。その番組で、「ハナモゲラ語」というでたらめな日本語で歌われた演歌のパロディ(アルバム『タモリ』収録の「けねし晴れだぜ花もげら」)を聴いて、「昔の面白かったタモリはこれなんだ!」と思ったのを覚えています。
──面白かったということは、過去形なのですね。
近藤氏:あの頃のタモリのイメージは「サラリーマン」です。毎日アルタという会社に行って、お客さんとお約束のやりとりをする人。高校生って、いろんなものに反発したがる年頃じゃないですか(笑)。思春期に自分の父親がダサく見えるような気持ち、とでも言えばいいんですかね。
──本書は、タモリ独特の面白さについて書かれています。近藤さんの中でタモリの評価が「面白かった」から「面白い」に変わったのはいつごろでしょう。
近藤氏:僕だけではなく、1990年代後半から2000年ごろにかけて、サブカルチャー的にタモリを再評価しようとする流れが出てきた印象があります。『クイック・ジャパン』がタモリ総特集をやったのが2002年。僕も2000年前後に『タモリ倶楽部』や『徹子の部屋』で鉄道ファンとしてのタモリを見て、「この人は見ているものが他の人と違うな」と再認識するようになって。調べていくと、どんどんタモリの存在が「変」に思えてきて、ますます興味を抱きました。
ブリーフ一丁から国民的タレントへ
近藤氏:はい。タモリはポストモダン的な状況から出てきた人だと思うんです。ポストモダンってようするに、あらゆる物事を歴史的な蓄積や文脈から引き離してパッチワークのようにつなぎ合わせるといった、ある種の知的遊戯のようなものですよね。たとえば初期のタモリの「大学教授ネタ」はその雰囲気を持っています。でも90年代後半になると、ポストモダンの勢いが衰えて、歴史に人々が向き合う必要が高まっていく。知的なものに対する姿勢が、人々の中でも、タモリの中でも変わっていくんです。
──いつ頃、どのように変化したのでしょうか。
近藤氏:まず『笑っていいとも!』スタート(1982年)の前後ぐらいが分岐点だったと思います。もともとタモリは知的なものに対してシニカルでもありました。その態度や芸を封印して、意図的にスタンスを変えました。封印しているうちに、年齢や時代の変化に伴って自然体になり、『ブラタモリ』の街歩きで見せているような面が出てきた。茶化すのではなく、自分の好きなものに素直に向き合って、面白さを引き出す……「力を抜いた」とも言えるでしょうか。事務所のイメージ戦略も成功しました。
──本書の5章と6章でも、変化していくタモリのイメージについて詳しくまとめられています。
近藤氏:今のタモリのイメージは、1980年ごろを境目にして構築されたものなんですよ。初めはブリーフ一丁で走り回るようなタレントだったのに(笑)、この時期にはタキシードを着て朝日新聞とかのお堅めのCMにあいついで出演したり、NHKにレギュラー出演するようになったりと、よりエスタブリッシュなイメージに変えていきました。1981年には、千趣会の新聞広告で「1年前、女性たちがいちばん嫌い、に挙げた人。なのに、ことしはいちばん好きな人、です。」というキャッチフレーズが掲げられるくらい、タモリの変化は凄まじかったんです。
【次ページ】 タモリの「愛され力」の秘密
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