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- 2020/03/09 掲載
お風呂とルミナリエに奔走、ノーリツ創業者・太田敏郎が最後まで貫いた信念
連載:企業立志伝
母のひと言で勉学に励んだ少年時代
太田氏は1927年、父・治作、母・あさゑの次男として兵庫県姫路市に生まれています。父親は姫路師範学校の教師でしたが、太田氏は幼い頃から体が大きくケンカばかりするガキ大将。勉強はあまり得意ではありませんでした。やがて姫路中学に進んだ太田氏は、同校から陸軍士官学校に進んだ兄と同じ道を目指すことになります。1943年、陸軍士官学校と海軍兵学校を受験した太田氏は両校に合格。町内会長をはじめとする大勢の万歳の声に送り出されて、海軍兵学校へと進学します。
湯気の向こうに母を思い浮かべた海軍兵学校時代
海軍兵学校での生活は厳しいものでした。入校式初日、1年生は上級生の前で出身県、出身校名、姓名を力一杯の声で申告します。太田氏は幼い頃から大声が自慢でしたが、「何を言っとるか分からん」「元気がない」と何度もやり直しを命じられ、声もかれ、全身汗まみれになったといいます。昼食に出された赤飯も味わうどころではなく、「えらいところに入学した」(『お風呂は人を幸せにする』p41)と暗い気持ちになるほどでした。海軍兵学校は学業も厳しく、夏は5時半、冬は6時半に起床して毎日9時間を勉強に充て、それ以外の時間も体育やボート、柔剣道などの訓練に励んでいます。
そんな厳しい日々の中で、太田氏がほっとしたのが訓練後の入浴の時間でした。
海上訓練などがあった時は、夕方になると全身が凍(い)てつくほど体は冷え切ります。訓練後の入浴では、お湯の中でやっと生気を取り戻し、湯気の向こうに故郷の母親の顔を思い浮かべ、涙を流したといいます。
「この思いが後の人生に大きく影響することになった」(『お風呂は人を幸せにする』p48)
しかし、そんな訓練の日々も終戦によって終わりを告げることになりました。終戦後、「生徒は故郷に帰れ」という命令を受けた太田氏は、当面の生活費として200円を支給され、故郷の姫路へと帰ることになりました。
人生を変えた、能率風呂との出会い
「とにかく何よりも食糧の確保が第一」と考えた太田氏は、近所の人たちと協力して近くの陸軍の飛行場を開墾。さつま芋づくりを始めます。しかし、いつまでも飛行場の開墾をしているわけにはいきません。
太田氏は兵庫師範学校にしばらく通ったのち、退学して川崎重工業の臨時工として鍛造の現場で働きます。その後、小学校を回って学習帳の販売を始めて成功しています。
そんなある日、友人から「風呂釜を発明して事業をやるための相棒を探している人がいる」と言われ、訪ねたのが「能率風呂」の発明者・植松清次氏です。能率風呂は、日本の従来の五右衛門風呂とは違い、タイル仕上げで温かいお湯が底から湧き上がってくる構造でした。
「風呂は人を幸せにする。わしの発明した能率風呂は日本一じゃ」(『お風呂は人を幸せにする』p58)と豪語する植松氏に勧められ、能率風呂に入った太田氏は、海軍兵学校で経験した風呂のありがたさを思い出します。風呂から上がるやいなや、植松氏とともに事業を始めることを決意しました。
【次ページ】起業するも1年とたたずに倒産
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