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  • 2020/05/29 掲載

意外と知らない「カーネル・サンダース」はどんな人? コロナでも好調KFCの始まりとは

連載:企業立志伝

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コロナ禍で多くの外食産業が苦しむ中、3月も4月も前年同月を上回る既存店売上高を上げたのが日本KFCホールディングスです。1974年に日本上陸以降、「クリスマスにチキンを食べる」という日本だけの習慣を根付かせるなど、今や日本人の食文化と切り離せない存在となったケンタッキー・フライドチキン。世界中の同社の店頭でお客さんを迎えるカーネル・サンダース(本名ハーランド・デーヴィッド・サンダース)氏が同社の創業に挑んだのは65歳の時です。今回は、知っているようで知らないカーネル氏の波乱に満ちた人生をたどります。
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誰もが知る「カーネル・サンダース」の知られざる人生
(Photo/Bettmann/Getty Images)

小学校に通いながら働き始め、14歳で家を出る

 「カーネル・サンダース」こと、ハーランド・デーヴィッド・サンダース氏(以下、カーネル氏)は1890年9月にインディアナ州クラーク郡のヘンリービルで3人兄弟の長男として生まれています。(「カーネル」は、ケンタッキー州に貢献した人に与えられる「ケンタッキー・カーネル」という名誉称号)

 カーネル氏が6歳の時、肉屋を営んでいた父親が亡くなったため、母親は3人の子どもを養うために缶詰工場に働きに出ます。母親は工場に泊まり込みで働くことも多く、代わりに長男のカーネル氏が家事を行い、そこで「自分は料理が好きだ」と気づいたそうです。幼いカーネル氏が自分で焼いたパンを母親に食べさせようと工場に持っていったところ、職場の同僚たちもその味を絶賛するほどだったといいますから、その腕前はかなりのものだったようです。

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(Photo/Getty Images)
 やがて、母親を助けたい一心から、カーネル氏は小学校に通いながら農場などで働くようになります。この農場での厳しい労働を通して、カーネル氏は一生懸命に働くことの大切さを知ったといわれています。そしてカーネル氏が12歳の時に母親が再婚。一家の生活は楽になるかと思われましたが、カーネル氏と義父の仲が険悪なものとなったため、カーネル氏は14歳で中学校を辞め、家を出ています。


40の職を転々とした青年時代

 以来、カーネル氏はいくつもの職業を転々とすることになります。主なものだけでもサザン鉄道、ノーフォーク・アンド・ウエスタン鉄道、イリノイセントラル鉄道、ペンシルバニア鉄道、フェリーボートの経営、アセリンガスのランプの製造販売、ミシュランタイヤのセールマンなどを経験し、ほかにも短い間ですが軍隊にも入隊していますし、弁護士(当時は資格不要)なども経験しています。

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(Photo/Getty Images)

 実に40もの職を転々としたと言われており、30代後半で始めたガソリンスタンド(ケンタッキー州ニコラスビル)も1929年の世界恐慌のあおりを受けて倒産と、ここに至るカーネル氏の40年の人生はまさに波乱続きとしか言いようがありません。

 職は転々としたものの、カーネル氏はどこにいても信じられないくらいよく働いたことは確かなようで、その勤勉さが後の人生につながったとも言われています。

 ガソリンスタンドを経営していた頃も、朝の5時に店を開け、夜の9時に店を閉めた後は夜中までタイヤの修理をするなど、とにかくよく働いたうえ、「自分は、ケンタッキーで自動車の窓をサービスとして洗った最初の人間だ」(『カーネル・サンダース』p44)と自身で振り返るほど、徹底したサービスぶりでも知られていたようです。カーネル氏自身、働くことが大好きでこう振り返っています。

「自分に特別な才能があったとは思えない。成功できた最大の要因は一所懸命に働いたことだ」(『カーネル・サンダース』p42)

車にはガソリンを、人にはおいしい食事を

 大恐慌でガソリンスタンドを失ったカーネル氏ですが、その真面目な仕事ぶりを評価する人がいました。1930年、石油会社シェルオイルがケンタッキー州コービンに新しく建てるガソリンスタンドの経営をカーネル氏に持ちかけたのです。

 ガソリンスタンドは国道25号線沿いの好立地にあったうえ、カーネル氏が前回同様に徹底したサービスを行ったことで繁盛しますが、ある時、カーネル氏は気づきます。ほとんどのお客さんは長く車を運転してガソリンスタンドにやって来るため、おなかを減らしているのです。

 「車にガソリンが必要なように、お客さんには食事が必要だ」(『カーネル・サンダース』p56)と考えたカーネル氏は、ガソリンスタンドの横の小さな物置を改造してテーブル1つと、椅子6脚だけの「サンダース・カフェ」を始めたのです。

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(Photo/Getty Images)

 カーネル氏が提供したのはフライドチキンやハム、豆やビスケットといったありふれたものばかりでしたが、清潔さに気を使い、丁寧につくった料理にこだわるサンダース・カフェはたちまち評判になり、たくさんのお客さんが訪れるようになります。

 「車にはガソリン・人にはおいしい食事」というアイデアに自信を持ったカーネル氏は、同じ国道25号線のより立地条件の良い場所にガソリンスタンドを移し、その横により広い「サンダース・カフェ」を併設します。カーネル氏が「州の料理への貢献」を認められ、州知事から「ケンタッキー・カーネル」の名誉称号を与えられたのはこの頃のことです。

 売り上げは順調に伸び、レストランを徐々に拡張したカーネル氏は、レストランに専念するためにガソリンスタンドを手放し、代わりにモーテルを併設。さらに1937年にはノースカロライナ州にもモーテルを建てるなど事業は順調に成長しますが、ここで再び試練が訪れます。1939年、コービンのレストランとモーテルが全焼してしまったのです。

 この時、カーネル氏は50歳目前でした。ようやく軌道に乗ってきたビジネスのほとんどすべてを失い、「もうレストランはやめよう」と考えましたが、サンダース・カフェを訪れる多くのお客さんに勇気づけられ、再起を決意します。1941年、カーネル氏は当時としては大規模な142席もある「サンダース・カフェ」を建設、再び挑戦を開始したのです。

【次ページ】65歳、残ったのはわずかのお金と中古車とフライドチキン
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