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  • 2018/11/01

Windows 95の父、中島聡氏の2030年予測:経団連を見ると「GAFAに勝てるワケがない」

連載:2030年への挑戦

インターネット時代の扉を開いたWindows 95を設計した伝説の日本人がいる。日本で初めて米国マイクロソフトに転籍した天才プログラマー、中島 聡氏がその人である。中島氏は先ごろ、デジタル・ネイティブ世代の若者が「未来の設計者」として立ち上がるために、NPO法人「シンギュラリティ・ソサイエティ」を創設した。激変する世界経済の中で、2030年に向けて日本が復活するためにはどうしたらよいのだろうか? そのヒントについて話をうかがった。

聞き手・構成:編集部 中島正頼、執筆:井上猛雄

聞き手・構成:編集部 中島正頼、執筆:井上猛雄

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中島 聡氏

1960年生まれ、工学修士(早稲田大学)、経営学修士(ワシントン大学)。NTT通信研究所、マイクロソフト日本法人を経て、本社の米マイクロソフトに移る。Windows 95、Internet Explorer 3.0/4.0、Windows98などのソフトウェア・アーキテクトとして活躍。Xevo Inc.創業者

学生時代にマンションを3つ買えるほど稼ぐ

──プログラムに目覚めたきっかけについて教えてください。

中島氏:僕がプログラミングを始めたのは17歳のときです。それから半年後に稼ぎ出したので、職歴としてはかなり長いんですよ。1976年にNECから「TK-80」というマイコンキットが発売され、水を得た魚のように、その面白さに目覚めたのです。

 まだ当時はアセンブラ言語でしたが、それでゲームをつくり、「月刊ASCII」に記事を掲載してもらいました。それが契機となり、当時のアスキーラボでアルバイトをするようになったのです。

 その後、アスキーに入り浸りつつ、世界に先駆けてCADソフトウェアの「CANDY」を開発し、マンションが3つ買えるぐらいのロイヤリティを稼ぐことができました。しかし当時の僕にとっては、プログラミングは楽しいもの、趣味でしかなかったのです。

NTTから当時ベンチャーだったマイクロソフトへ転職

──社会人のスタートは、NTTだとお伺いしました。そこから、当時のマイクロソフトに入社した経緯について教えてください。

中島氏:早稲田大学を卒業し、NTTに入社して武蔵野の電気通信研究所に配属になりました。ここで「ソフトウェア開発ができる!」と期待していたのですが、仕様書づくりばかりで、実際のプログラミングは下請けに投げる。かなりイメージと違うと感じていたところ、米マイクロソフトが1986年にASCIIと提携を解消し、日本法人を立ち上げることになったと知りました。

 それでアスキー時代に一緒に働いていた古川 亨さん(アスキー退社後、米マイクロソフトの日本法人、マイクロソフト株式会社を設立。初代代表取締役社長に就任)にすぐに電話をかけました。「なぜ僕を誘ってくれないんですか?」と。すると古川さんは「おまえはNTTのエリートコースに乗ったから、ベンチャーには興味がないと思ったんだよ」と言われました(笑)。すぐに辞表を書いて上司に出したところ、もう周りの全員から猛反対をくらいましたね。

 「そんなベンチャーなんかに行って後悔するぞ」と。結局なんとか退職できて、マイクロソフト株式会社(MSKK)に入りました。でも日本法人よりも、本当は米国本社で新しいことにチャレンジしたかったんですね。それで英語もうまく話せないのに、ビル・ゲイツに猛アピールして、ようやく1989年に日本人で初めて本社に転籍させてもらえることになりました。

社内闘争勃発、ビル・ゲイツ氏に決断を迫る

──米国本社でのお仕事と、一番印象に残ったエピソードについて教えてください。

中島氏:本社では次世代OSの開発グループとして「OS/3」(IBMと共同開発したOS/2の後継)プロジェクトが始まっていました。当時まだ僕は英語があまりできず、議論に加われなかった。それを見かねて、上司がプロトタイプをつくるように指示してくれました。それで(Windows 95の元になる)「なんちゃって次世代OS」をつくったところ、それが社内で大ヒットしてしまったんです(笑)。

 やはり会議で議論するよりも、実物をつくってしまうと説得力が増します。見た目で動いているほうが勝ち。その「なんちゃって次世代OS」をディベロッパー・カンファレンスでいきなり発表させられ、張りぼてから本物を作るプロジェクトが始まりました。それが次世代OSの「カイロ」(Windows NTの後継)プロジェクトに発展し、最終的にチームも400名体制に膨れて上がっていったのです。

──一気にビッグプロジェクトですね。

中島氏:しかし人数が増えるとプロジェクトは会議ばかりで、なかなか進展しない。僕はそれが嫌で仕方なくて、Windows 3.1の開発チームに行かせてもらうように希望したのです。

 移籍後、僕がカイロチームで育んできたアイデアをWindows 3.1に盛り込もうという話になり、それが後にWindows 95になったわけです。しかしカイロチームにしてみると、「アイデア(中島氏が考えたもの)が別の部署に盗まれた」と感じたようです。それで社内闘争になり、取締役会議に呼ばれました。

──当時の取締役会議ということは、トップはもちろん…。

中島氏:ビル・ゲイツです。僕はCD-ROMに入ったβ版をビル・ゲイツに披露し、「とにかく早く出させてほしい。このままでは次期Windowsはいつまで経っても世に出ない」と直訴しました。するとビル・ゲイツがカイロの開発中止を即決したのです。これはマイクロソフト時代で一番の思い出に残っている出来事ですね。

 その後、2000年にマイクロソフトを退社するまで、Windows 95、Internet Explorer 3.0/4.0、Windows 98のチーフ・アーキテクトを務めて、開発の最前線に立ちました。そして退職後はVCを経て、UIEvolutionという会社を設立し、ここで携帯電話の新しいUIの開発を行いました。この会社はスクウェア・エニックスに買収され、CTOを務めたのちに、2008年にBig Canvas社を設立しました。そして現在に至っています。

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「全員が男性、65歳以上、転職経験も起業経験もなし、雇われ社長ばかり」の経団連が、日本経済界に強い影響力を持つことを危惧する中島氏

中島氏が考える「BUS2.0」とは何か?

──本題ですが、中島さんは時代の先駆者として多くの画期的なプロダクトを開発してきました。その経験から、2030年の世界はどうなっていると見ていますか? 注目している技術は何でしょうか?

中島氏:まず技術的にいうと、自動運転が社会的に非常に大きなインパクトを与えるようになっていると思います。レベル4から5ぐらいの間で、法律も整備され、ロボットタクシーのビジネスが一般化しているでしょう。

 PCやインターネットやスマホが世の中を変えたように、自動運転がいろいろなことを激変させる。自動運転しか許可しない地域も出てくると思います。自動車は所有するものから、必要なときに使うものになり、料金もバスと同じぐらいになるかもしれませんね。

 しかしその一方で、日本では少子高齢化と過疎化が進み、地方ではバスも成り立たず、人が移動できない、人が住めない街になっている恐れもあります。実際に現在もローカル線が廃止されたり、路線バスが2時間に1本という場所もあるくらいです。

 そこで、いま僕が考えているのは「BUS 2.0」。自動運転時代の乗合い小型バスを走らせ、スマホで場所を指定すると送迎してくれるサービスを「人が運転する自動運転車」で開発したいと考えています。現時点でそういう状況にしておき、後々に自動運転にすぐ切り替えられる準備をしたいのです。とにかく、いま解決すべき問題に取り組まねばいけないと考えています。

──それでNPO法人「シンギュラリティ・ソサイエティ」を立ち上げたのですね。

中島氏:ええ、そうです。2030年にあるべきモビリティサービスを、いまから協力して構築したいと考えています。そのために、とりまとめ役として機能するようにNPO法人にしました。

 営利事業だと、どうしても変な争いやシガラミに巻き込まれやすいし、儲かる方向に走りがちになります。いずれ、このままではタクシー会社にしろ、バス会社にしろ立ち行かなくなります。そこで「みんなで一丸となってやりませんか?」と持っていきたい。10年後に自動運転が可能になった時点で、すぐに移行できる形にしておきたいのです。

【次ページ】雇われ社長ばかりの経団連では、来るべき2030年に「勝てるわけがない」

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