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- 2021/03/10 掲載
ダイソンはなぜ革新的? ジェームズ・ダイソンを動かす圧倒的エネルギーの“正体”
連載:企業立志伝
「古典学者に」という期待を裏切り、美術の道へ
1947年、イギリスのノーフォーク州に生まれたダイソン氏は、9歳のときに古典の教師だった父親ががんで亡くなったことをきっかけに、寄宿学校に入れられています。父親を亡くしたばかりのダイソン氏にとって家族と離れることはつらいことでしたが、当時のイギリスでは教育がとても重視され、ダイソン氏のような中流家庭の子どもは全寮制の私立学校に入ることが当然のこととされていました。
当時のダイソン氏は、「自分の歯が立たないことにあえて挑むような頑固で意地っ張りな子どもだった」(『逆風野郎』p34)といいます。
音楽にはあまり興味がなかったのに学校のオーケストラで「一番難しい楽器」と言われたバスーン(ファゴット)に挑戦したり、自分が足が速いことに気づいて長距離レースに出場したり、ムンク風の絵を描いて美術賞を受賞したりと、さまざまなことに挑戦しています。
一方で、ケンブリッジ大学の数学者だった祖父を持ち、父親も古典の教師という家に生まれ、将来は古典学者になることを期待されていましたが、ラテン語やギリシャ語が嫌いで学者の道は早々に諦めています。その後も木工に興味を持って製作に励んだり、演劇にも挑みますが、最終的には大好きな美術の道に進むことを決意。1966年にバイアム=ショー美術学校に入学、1年後に王立美術大学(RCA)に進んでいます。
1837年に官立デザイン学校として創立された同校は、修士号と博士号を授与する美術系大学院大学としては世界で唯一の学校であり、現在はダイソン氏が学長を務め、総長をアップルの元最高デザイン責任者だったジョナサン・アイブ氏が務めていることで知られています。
在学中、ダイソン氏の関心は絵画から家具、インテリアデザイン、エンジニアリングへと変わっていきます。最終的には、ダイソン氏が「人生の師であり、生きたお手本であり、僕の才能を熱心に引き出してくれた」(『逆風野郎』p71)と語るジェレミー・フライ氏と出会ってシートラック(上陸用高速艇)を設計、フライ氏の会社ロトルクに入社したことが、ダイソン氏のその後の人生を決めることになりました。
師匠に学んだ「まずやってみる」精神
ダイソン氏同様に発明家でもあるフライ氏は、アイデアを思いつくと机に向かってコスト計算をするのではなく、「まずつくってみる」人でした。ダイソン氏が指示されたシートラックのアイデアを思いついたとフライ氏に報告すると、フライ氏はただ一言「工房の場所は知っているだろ。行ってやってこい」(『逆風野郎』p82)と言うだけでした。「情熱と知性があれば何でもできるし、ある方法でうまくいかなかったら、うまくいくまで他の方法を試すだけ」というフライ氏の手法にすっかり魅せられたダイソン氏は、その後の発明においても同様の方法をとるようになります。
1969年にシートラックの試作品を完成させたダイソン氏にフライ氏は300ポンドのデザイン料を支払ったうえ、シートラックを製造販売するためにロトルクの中に海洋事業部を立ち上げます。そして、1970年6月にRCAを卒業したダイソン氏は正式にロトルクに入社し、自分がデザインしたシートラックを販売するという重責も担うことになったのです。
販売の相手は外国の軍隊や石油会社です。当初は販売に苦戦しますが、第4次中東戦争のさ中、たくましくも敵国同士であるエジプトやイスラエルに販売するといった荒業も見せています。
当時のダイソン氏は美大を卒業した若者であり、販売には興味がありませんでしたが、「自分がデザインしたものを大成功させたかった」という熱意だけで世界を駆けまわっています。
それは「年俸1万ポンドに専用車付きの世界一恵まれた仕事」(『逆風野郎』p106)でしたが、やがてダイソン氏は自分が最も得意とする工業デザインの世界へと戻ってきます。
【次ページ】積もりに積もった「掃除機」への不満
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