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- 2018/01/17 掲載
香港は「凋落」したのか? 現地調査で見えた役割の変化 篠崎彰彦教授のインフォメーション・エコノミー(94)
国際的な金融・商業都市の香港
アジアを代表する金融センターの香港が英国から中華人民共和国(中国)に返還されたのは、1997年7月1日のことだ。その後、世界経済はアジア通貨危機、ITバブル崩壊、SARS(重症急性呼吸器症候群)騒動、リーマンショックなど数々の衝撃に見舞われたが、香港はそれらの混乱を上手く乗り越えて、国際経済都市としての地位を高めてきた。
現在の一人あたりGDPは、日本の3万8,550ドル(2017年IMF推計値。以下同じ)を上回る4万4,999ドルと、シンガポールの5万3,880ドルに次ぐアジア有数の豊かな社会だ。国際金融センターの一角として、ロンドン、ニューヨークに続く世界第3位の地位をシンガポールと激しく競い合っている(5位は東京、6位は上海)。
貿易面でも、香港空港の貨物取扱量は世界1位で、チャンギ空港(シンガポール)の2倍以上だ。海上コンテナの取扱量も、一時期の勢いは見られないものの、依然として世界5位を誇る。
アジアの地域統括拠点はシンガポールか香港か
筆者は、かつてSARS騒ぎによる不景気から立ち直りつつあった2004年8月に香港、シンガポール、タイで現地調査を行ったことがある。タイを中心とした製造拠点としてのASEANではシンガポールが、また、世界の工場としての中国では香港が、それぞれ金融・貿易センターとして、地域統括拠点の地位を固めつつあることを目の当たりにした。当時は、中国のWTO加盟(2001年)から間もないころで、世界経済における米国の存在感がIT不況で低下する中、中国経済のプレゼンスが高まっていた。そのせいか、シンガポールに比べて香港により勢いがあるように感じられた。
実際、前回の調査で訪問したある金融系シンクタンクでは、シンガポールの調査セクションが人員削減となる一方で、香港の陣容はその3倍近い人数に拡充されていた。アジア通貨危機で混乱したASEANをしり目に、ドルとのペッグ制(固定相場)を維持した香港が、不動産や株式市場の下落はあったものの、金融・資本市場の混乱回避に成功したことで、中国経済の台頭とともに、大きく注目されたのだろう。
余談だが、その頃は、東京が世界第2の経済規模を誇る日本経済の金融・貿易センターとして、シンガポールや香港に勝るとも劣らないアジアを代表する拠点都市だとライバル視されていたが、今回の訪問では、残念ながらあまり強くは意識されていなかった。
さて、香港とシンガポールに話しを戻すと、連載の第84回で指摘したように、最近では、統括拠点としてシンガポールにより勢いが感じられる。もちろん、中国経済は以前にも増して存在感を高めており、その点では、今でも香港が圧倒的に有利だ。
だが、まさにその中国との関係が20年前とは大きく変容し、香港の国際的な経済都市としての特性に影響しているようだ。
返還から20年で何が変わったか?
香港の繁栄にとって、中国返還から今日に至るまで変わることのない要因と、大きく変化した要因とがある。変わらない要因は「中国との関わりが重要な基盤である」という点だ。シンガポールが人口7億人を抱えるASEAN経済の金融、法務、貿易、経営戦略などの拠点だとすれば、香港は14億人を擁する経済圏の拠点だ。これは今も変わらない立地特性であり、足元の景気動向も、中国経済との連動性が極めて高い。
他方、この20年で大きく変化した要因もまた、中国との関係に見い出せる。それは、政治的要因と経済的要因に分けられ、前者は返還時に掲げられた「一国二制度」に対する信認の揺らぎだ。
香港返還に先立つ1984年12月、中国と英国の両政府は、1997年7月1日に香港を中国に返還する「中英共同声明」に署名した。その中で、香港の現行制度を返還から50年間は維持することが合意された。いわゆる「一国二制度」だ。
返還後の1990年4月に成立した「香港特別行政区基本法」でも、50年間は現有の資本主義体制および生活様式を変更しないと規定されている。これが、香港=自由な経済都市として、中国との関わりで世界の金融・商業センターたらしめる特性でもあった。
ところが、時を経るにつれて「二制度」よりも「一国」の立場を強める中国政府の意向が強く押し出されるようになり、この基本方針が遵守されないのではないかとの疑念が強まっている。自由な経済都市としての香港の「政治リスク」だ。
【次ページ】経済的要因はどう変わったか?
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