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  • 2018/08/21

タバコの「煙」がなくなれば、なぜ喫煙者は嫌われなくなるのか

“「メディア」とその「内容」を私たちは混同しがちであり、混同どころか「内容」(コンテンツ)にばかりついつい気を取られてしまうがためにしばしば誤認しがちである”と主張したのはマーシャル・マクルーハン氏だが、「味覚的」だと感じる行為が実は「視覚的」で、「視覚的」だと思うものが「触覚的」だったりと、我々はコトの本質を平気で誤認している。この誤認を意識することに“イノベーションの種”が隠れているかもしれない。

編集者/文筆家 高橋幸治

編集者/文筆家 高橋幸治

1968年、埼玉県生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業後、1992年、電通入社。CMプランナー/コピーライターとして活動したのち、1995年、アスキー入社。2001年から2007年までMacとクリエイティブカルチャーをテーマとした異色のPC誌「MacPower」編集長。2008年、独立。以降、「編集=情報デザイン」をコンセプトに主にデジタルメディアの編集長/クリエイティブディレクター/メディアプランナーとして企業のメディア戦略などを数多く手がける。本業のかたわら日本大学芸術学部文芸学科、横浜美術大学美術学部美術・デザイン学科にて非常勤講師もつとめる。「エディターシップの可能性」を探求するセミナー「Editors' Lounge」主宰。著書に「メディア、編集、テクノロジー」(クロスメディア・バブリッシング刊)がある。

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喫煙は嗅覚や味覚ではなく「視覚」で認知している人が多い
(©berkay08 - Fotolia)

私たちはコンテンツに気を取られ、メディアの本質を誤認している

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 私たちは存外、自分がいまやっていることの本質を正確に理解できていないことが多い。

 たとえば、時計を見るという行為。やおら腕に巻かれた腕時計を目の前にかざしたり、あるいはポケットからスマホを取り出したり、壁に掛けてある時計に視線を移したりして現在の時刻を確認する。

 しかし、私たちが時計を見るのは“いま”の時刻が知りたいのではなく、“過去のある時刻からどれくらい経ったか?”、もしくは“未来のある時刻までどれくらい残っているか?”を知りたいのである。

 同様のことは地図にも言える。私たちは自分が“いま”どこにいるかを確認しているつもりになっているけれども、実際は“さっきまでいた地点からもうどれくらい移動したか?”、または“これから行く地点まであとどれくらい移動するのか?”を確認している。「現在」とは常に「過去」と「未来」との時間的/空間的な差分を測る参照点と言える。

 こうしたことは人間の知覚活動や認識活動の全般に言えることで、「味覚的」だと感じている行為が実は「視覚的」だったり、「視覚的」だと思っている行為が実は「触覚的」だったり、案外、私たちはコトの本質を平気で誤認している。

 これが個人の日常生活のレベルであればとりてて何の問題にもならないが、企業のビジネスのレベルでも同様のことが起こっているとなれば少々考えものだろう。

 マーシャル・マクルーハンはその主著『メディア論』(みすず書房)の中で、「メディア」とその「内容」(現代の言葉でいえばコンテンツである)を私たちは混同しがちであり、混同どころか「内容」(コンテンツ)にばかりついつい気を取られてしまうがためにしばしば誤認を誘発しがちであると主張している。以下の引用はまさにそのことを指摘した個所である。
実を言えば、メディアの内容がメディアの性格にたいしてわれわれを盲目にするということが、あまりにもしばしばありすぎるのだ。現代になってはじめて、種々の工業はそれ自身が遂行しているさまざまな業務に気づくにいたった。IBMが事務用品あるいは事務機器の製造をしているのではなく、情報の加工をしていることに気づいたとき、IBMは明確なヴィジョンを持って航行を始めたのであった。ジェネラル・エレクトリック・カンパニーはその利益のかなりの部分を電球と電気設備の製造から上げている。けれども、この会社はそれが情報を移動させる仕事をしていることにまだ気づいていない。アメリカ電信電話会社と同じである。

加熱式タバコが追求すべきは「味覚的」な要素ではない

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メディア論の泰斗マーシャル・マクルーハンによる『メディア論』(みすず書房)。出版後50年以上を経た現在においても、さまざまな場面で応用可能な示唆に富む記述が散りばめられている。いまだ色褪せないメディア論のバイブルである
 使用している知覚の問題で言えば、たとえば、喫煙はどうか? 近頃はこんな文章中ですらタバコのことを取り上げると嫌煙家の方々から叱責を受けてしまいそうだが、ここでタバコをめぐる論争の是非を述べたてる気はさらさらなく、あくまでも話のネタなので、嫌煙家の方もしばし我慢していただきたい(最初に断っておくと筆者は30年来の喫煙者である)。

 タバコは本当のところかなり視覚的な体験と言える。ところが、私たちは喫煙を味覚的もしくは嗅覚的な体験だと思い込んでいる。多年の喫煙によってニコチン中毒となった脳が同物質の欠乏を訴え、タバコを吸うことによってニコチンが肺から血中に摂取されると、イライラが解消されて精神が安定する(ような気がする)わけだから、本来は風味などどうでもよいはずである。

 ところが、タバコは嗜好品ということになっているから「うまい」という形容詞が一般的になっている。タバコを吸っている本人もニコチンが体内に浸透して安心するだけなのに、そう言われればなんだか「うまい」ような気になってしまう。

 嫌煙家にとっては最大の嫌悪の的である臭いも、愛煙家にとってはいい香りのように思えなくもない。しかし、タバコは本当に味覚や嗅覚を満足させてくれるから吸っているのか?

 「そもそもニコチン中毒なんだから、美味かろうか不味かろうがそんなことは関係ないんだよ」と言われてしまえばそれまでだが、自分も含めて喫煙している人を見ていると、タバコを吸っている最中、たいてい二度や三度くらいは指に挟んだタバコに目をやる。

 つまり、冒頭で時計や地図の例を示したように“もうどれくらい吸ったのか?”と“あとどれくらい吸えるのか?”が重要なのだ。そうした意味で私たちはタバコによって時間を消化しているのであり、喫煙は「味覚的」な体験というよりは「視覚的」な体験と言えるだろう。そして、同時に、「現在」を「過去」と「未来」との差分を測る参照点としている。

 昨今流行している加熱式タバコが他人の迷惑を多少回避することには成功しても、肝心な吸っている本人の満足度が微妙に低いのはこのためである。

 おそらく、タバコというものは吸った結果として減ってくれないと意味がない。1本のタバコを吸うときだけでなく、灰皿に溜まった吸い殻、1箱の中の残りの本数、これらはすべて視覚の問題である。タバコがしばしば映画の小道具として登場するのは(日本ではもうなかなか使用できないが……)、残っている長さや吸殻の本数によって時間の経過を表現できるからにほかならない。加熱式タバコのメーカーが追求すべき要素は、実は「味覚」のリアリティーではないのである(実際、加熱式タバコはたいてい「うまい」とは言えない)。

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