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  • 2019/07/01 掲載

語り継ぎたい経営者・中内功、ダイエーが「価格破壊」のために戦った理由

連載:企業立志伝

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現在はイオングループの一員であるダイエーですが、かつては全国チェーンの一大企業であり、関連企業を含めて6万名以上の従業員を抱える売り上げ日本一の流通グループの中核企業でした。そんなダイエーを一代で築き上げたのが流通業界の革命児と言われた中内功氏です。晩年は寂しいものでしたが、戦後、家業の小さな薬局店から身を興し、一代でダイエーを育て上げたその手腕と功績はあまりに大きく、今も中内氏を尊敬する経営者が多くいるのも事実です。今回は、日本の流通業界を大きく変えた中内氏の生きざまを見ていきます。

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

1956年広島県生まれ。経済・経営ジャーナリスト。慶應義塾大学卒。業界紙記者を経てフリージャーナリストとして独立。トヨタからアップル、グーグルまで、業界を問わず幅広い取材経験を持ち、企業風土や働き方、人材育成から投資まで、鋭い論旨を展開することで定評がある。主な著書に『世界最高峰CEO 43人の問題解決術』(KADOKAWA)『難局に打ち勝った100人に学ぶ 乗り越えた人の言葉』(KADOKAWA)『ウォーレン・バフェット 巨富を生み出す7つの法則』(朝日新聞出版)『「ものづくりの現場」の名語録』(PHP文庫)『大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ』(ビジネス+IT BOOKS)などがある。

大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ (ビジネス+IT BOOKS)
・著者:桑原 晃弥
・定価:800円 (税抜)
・出版社: SBクリエイティブ
・ASIN:B07F62BVH9
・発売日:2018年7月2日

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ダイエー創業者・中内功氏。“流通業界の革命児”と呼ばれた中内氏の生涯とは
(写真:Kaku Kurita/アフロ)


少年時代は「気の毒なくらいおとなしい男」

 中内氏は1922年、大阪府西成区伝法町(現・大阪市此花区伝法)で父・秀雄、母・リエの長男(4人兄弟)として生まれています。父親は大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)を卒業後、レコード石鹸で知られる鈴木商店(明治初期に誕生した大商社)グループを経て大阪で小さな薬屋を始めた後、1926年に神戸で「サカエ薬局」という小さな薬局を開業しています。

 生活は苦しく、幼い中内氏は毎日のように米を買いに走らされたといいます。その日食べる米はその日に買う、まさに「その日暮らし」だったそうです。米びつの中に米がいっぱい入っているのは一度も見たことがないという生活の中でも、次男・博氏が「ぼくら兄弟は、夕方から2時間か3時間は必ず勉強しろって、言われていた」(『ダイエー王国』p71)と残しているように、子どもの教育にはとても熱心な家庭で中内氏は育っています。

 1934年に入江尋常小学校を卒業した中内氏は神戸三中(現・兵庫県立長田高等学校)を経て、兵庫県立神戸高等商業学校(現・兵庫県立大学)に進学します。当時の中内氏は同級生たちによると「目立たない生徒」であり、「気の毒なくらいおとなしい男」(『カリスマ』上p116)だったといいます。

連載一覧
 中内氏が神戸高商を卒業したのは1941年12月、真珠湾攻撃の直後のことです。当時、国家の要請は上級学校へ進学するよりも「直ちに銃をとれ」というものでしたが、中内氏たち同級生のほとんどは進学を希望します。中内氏も神戸商業大学(現・神戸大学経済学部)を受験しますが、簿記が苦手で不合格となります。

 そのため仕方なく日本綿花に就職しますが、1942年12月に召集令状が届き、ソ連国境に近い綏南(すいなん)、そして激戦地のフィリピンへと送られることになったのです。

戦争で骨身に染みた「好きなものが腹いっぱい食える幸せ」

 フィリピンのジャングルでの日本兵がどれほど過酷な戦いを強いられたかは、大岡昇平氏の『野火』などにも書かれています。中内氏は人肉食いのうわさがつきまとったジャングルでの敗走戦を奇跡的に生き延び、日本に復員したことで、それ以前と以後で人間が大きく変わったと言われています。

 ここでの体験について中内氏は以下のように話しています。

「フィリピンの野戦でいったん死線を通ってきたのが私の原体験。人間は幸せに暮らしたいと常に考えています。幸せとは精神的なものと物質的なものとがありますが、まず物質的に飢えのない生活を実現していくことが、我々経済人の仕事ではないかと思います」(『カリスマ』上p166)

 強烈な戦争体験を経て、中内氏は「物質的に豊かさをもった社会こそ豊かな社会ではないか。好きなものが腹いっぱい食えるのが幸せです」(『カリスマ』上p166)と語っています。この考え方は、その後のダイエーの経営に色濃く反映されるようになっていきました。

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ダイエーのあゆみ
(出典:ダイエーHP、『カリスマ』下から筆者作成)

 1945年11月、フィリピンから復員した中内氏は、神戸市にある実家(サカエ薬局)の近くに「友愛薬局」を開店、業者を相手にした闇屋商売を開始します。その後、「サカエ薬局」「大栄薬品工業」を経て、1957年9月に「主婦の店・ダイエー薬局」を開店。以後、破竹の進撃を開始します。

 主に衣料品、化粧品、薬品などを扱う「主婦の店」は、吉田日出夫氏(丸和フードセンター社長・「主婦の店」全国チェーン会長)が1956年に北九州・小倉で始めた店が最初です。薬品小売組合の反対によって薬を扱えなくなり苦境に陥っていた同店を中内氏が助けたことが縁で、1957年9月に中内氏も「主婦の店」を開くことになったのです。

 当時、「主婦の店」はどこでも「開店する前から地域の物価を下げる」(『カリスマ』上p239)というほどの評判を呼んでいただけに、「主婦の店・ダイエー薬局」(ダイエー1号店。後に千林駅前店)も最初は大繁盛しますが、同業他社との乱売合戦に巻き込まれて苦戦を強いられます。

 苦境を救ってくれたのが吉田氏の部下であった阿部常務です。阿部常務は1日かけて店内を点検したのち、こうアドバイスしたといいます。

「店の半分を改装して、食品を扱ったらどうでしょう。特に菓子類は絶対に置くべきです」(『カリスマ』上p249)

 当時、薬のディスカウントは盛んに行われていましたが、食品分野ではそれほど広がっていませんでした。しかも、薬の購入頻度に比べて食品は毎日買うものであるだけに、それが安く買えるのは消費者にとって最もありがたいものでした。

 この食品も扱う「ミニスーパー」への転換が転機となって同店は再び繁盛店となり、その後のチェーン化へ、はずみをつけるものとなりました。

【次ページ】ダイエーの存在価値は「価格破壊」。中内氏が貫き通した強い信念

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