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1980年代に東京で学生生活や新入社員生活を過ごした人たちにとって、とてもなじみ深いものの一つが「丸井の赤いカード」です。お金はないけれどもおしゃれをしたい若者にとって、丸井は分割で買い物をできる唯一の場所だったとも言えます。そんな丸井のルーツは家具の割賦販売や月賦百貨店。礎を築いたのは、上京時に就職先の先輩たちから「大工」と呼ばれた創業者・青井忠治氏でした。彼は状況当初、地方出身者へのからかいや激しい競争に耐えられず、いとこに「いっそ上野の不忍池にでも飛び込んで死にたい」という手紙を送っています。
孤独の幼少期、カーネギーに憧れ上京
青井氏は1904年、父・伊八郎、母・うたの長男として富山県小杉町に生まれています。青井家は町でも有数の地主であり、広大な屋敷に住み、青井氏も外では「お坊ちゃん」と呼ばれる存在でしたが、わずか1歳の時に父親が事業に失敗。母親とも引き離され、生まれながらに約束されていた「旧家青井家の跡取りの座」を失いました。
さらに不幸は続き、2歳の時にはしかで左目の視力を失い、10歳で他家に嫁いでいた母を、そして11歳で父親を亡くします。青井氏は、父親の弟が当主となった家の離れで祖母に育てられるという孤独な子ども時代を送ることになりました。
やがて祖母の尽力もあり富山県立工芸学校の木工科に進んだ青井氏は卒業と同時に東京行きを決意します。高校時代に話を聞いたアメリカの「鉄鋼王」アンドリュー・カーネギーの生き方に憧れていた青井氏はこう考えたといいます。
「どうせ俺は天涯孤独なんだ。東京であろうとどこであろうと、俺にとっては同じことだ。精一杯頑張ってやろう。そしてそうだ、ひとかどの人物になるんだ」(「景気を仕掛けた男」p52)
挫折しかけた時期を救った、いとこの言葉
1922年、青井氏は月賦販売店「丸二商会」に就職をします。木工科出身の青井氏は当初、丸二商会は普通の家具店で、自分は家具の修理だけを担当すると思っていました。しかし実際には販売係や配達係、集金係など40名以上の店員が働く、家具を月賦で販売する店でした。
店の雰囲気は若い青井氏にとっては厳しいものでした。給料は月給制ではなく歩合制で店員同士の競争が激しいうえ、ただ1人の富山出身ということで方言をからかわれることも多く、青井氏は思い余って郷里のいとこ・はるえに「いっそ上野の不忍池にでも飛び込んで死にたい」(「景気を仕掛けた男」p93)という手紙を書きます。
ただ、はるえからの返事は「富山に戻ってこい」ではなく「人間は死んだ気になればどんなことでもできるはず」という厳しいものでした。この手紙を受け取った時、青井氏はショックを受けましたが、祖母の「ひとかどの男になって戻ってきなさい」という言葉を思い出し、「店で一番になろう」と強く決意しました。
不断の努力を重ね、24才で支店長に
心を入れ替えた青井氏は家具の修理の一方で早く商売を身に付けようと、そろばんや習字、簿記などの基本を習い始めたほか、月賦店の仕事の中で最も大変な集金業務を手伝わせてもらえるように願い出ました。集金はとても厄介な難しい仕事だけに、先輩たちは「大工に集金ができるのかい」と最初は相手にしませんでしたが、青井氏の熱意に負けて十枚の約束手形を渡しました。
当然、簡単にはいきません。相手は何とか支払いを延ばそうとあの手この手を使いますが、青井氏は根気よく足を運び説得することで、その日の深夜までにはすべての集金をすることができました。
これには先輩たちは驚きました。「一軒か二軒でも集金できたら上出来」と思っていた「大工」がすべてを集金したことで周りの青井氏を見る目は変わり、その後、青井氏は集金だけでなく、たんすの販売なども行うようになりました。
やがて「あの富山の男はすごい」と言われるようになった青井氏は24歳で丸二商会の中野支店長となり、1931年には丸二商会からのれん分けで独立、家具の割賦販売を開始しました。
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