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- 2019/01/21 掲載
経済×ITの「平成30年史」、産業はどこまで“情報化”したか 篠崎彰彦教授のインフォメーション・エコノミー(106)
平成元年のインフォメーション・エコノミーとは
平成の元号が始まったのは今から30年前の1989年1月だ。それからのインフォメーション・エコノミーは、1990年代、2000年代、2010年代と10年毎に3区分することで、その変遷をうまく跡付けることができそうだ。平成元年のオフィスでは、ワープロ専用機が幅を利かせていて、パソコン(PC)ですら、一部のマニアを除けば、一般にはそれほど普及していなかった。
当時の日本はバブル景気の真っただ中だ。その経済力はジャパン・アズ・ナンバーワンと世界からも驚異の目で見られていたが、企業人の名刺に記載されていたのは、電話とFAXの番号だけだ。
インターネットや携帯電話は、日常のビジネスシーンではまったく使われておらず、情報通信といえば、大型コンピュータと交換機網による専用線が主力の時代だった。
第一期 PCとインターネットとケータイ
1990年代の後半になると、オフィスでは「1人1台のPC」を目指す動きが主流となり、名刺には電話とFAXの番号に加えてe-mailアドレスが記載されるようになった。
携帯電話が一般に普及し始めたのもこのころだ。日本で移動体通信(=自動車電話+携帯電話)のサービスが開始されたのは1979年のことだが、1989年(平成元年)3月時点の加入者数はわずか24万人に過ぎなかった。
1992年には、ドコモの前身となる移動体通信の事業部門がNTTから分離されたが、携帯電話市場の将来性は、それほど有望視されてはいなかった。というのも、携帯電話サービスは、高価な贅沢品の一種で、誰もが利用できるものではなかったからだ。
当時、携帯電話を利用するには、加入料の4万5800円に加えて保証金10万円が必要で、月々の料金も基本料が1万7000円、通話は10円で7秒程度しかできなかった。
ところが、1990年代半ばからは、技術革新と規制緩和策(端末のレンタル制から買い切り制への変更、新規事業者の参入促進策など)の相乗効果で、アナログ(1G)からデジタル(2G)への転換が促され、料金とサービスの競争が盛んになった。
通話だけでなく、簡単なメッセージやメロディ、画像も送信できるツールに進化した結果、携帯電話市場は急拡大し、1999年にはPHSと合わせて加入者数が5000万人を突破、もはや「電話」の域を越えた「ケータイ」時代が切り拓かれた。
第二期(その1)e-Japan戦略とブロードバンド化
PCとインターネットの利用が進んだとはいえ、1990年代は、専用線が利用できる企業や官庁はともかく、数の上で圧倒的な中小企業や零細な自営業者あるいは一般家庭では、通信速度が遅いダイヤル・アップ接続のナローバンドが主流だった。
この方式では、通信速度が遅いだけでなく、料金体系も従量制だったため、PCをネットに常時接続させる今のような快適な利用環境からは程遠かった。この状況に転機が訪れたのは2001年のことだ。
小泉政権下のe-Japan戦略において、高速ネットワークのインフラ整備とその有効な利活用で5年以内に世界最先端の国を目指す、という大胆な目標が掲げられた。その第一歩がADSL市場だ。
ADSLは既存のメタル回線を使って通信の高速化を図る手法で、整備に時間を要する光ファイバー網(FTTH)が完備するまでの間、前倒しでブロードバンド化を実現するのに大きく貢献した。
政府は、ADSL市場への新規参入を促進すべく、NTTと競合する新事業者が市内網への接続で不利な扱いを受けないよう、強力に支援する施策を打ち出した。
郵政省(当時)はNTTに対して新規参入者にアクセス網を開放するよう強く指導し、公正取引委員会は独占禁止法の厳格な運用を行ったのだ(注2)。
平成13年版『情報通信白書』では、この年を「ブロードバンド元年」と宣言した。
【次ページ】第二期(その2)携帯電話とインターネットの融合
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