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- 2014/09/10 掲載
“すき家問題”を考える 「失敗の本質」から日本社会は何を学んだのか(前編)
他人事とは思えない「すき家」騒動
その運営企業であるゼンショーホールディングスに対して、5カ月をかけて調査を行った第三者委員会から提出された報告書の内容が一般に公開され、話題となった。SNS上では「ブラックとは聞いていたが、まさかここまでとは」「あまりに悲惨」「こんな状況で、まともな生活なんて到底不可能」と、多くの人のコメントが寄せられた。
例えばこの象徴的な一節を読んでみる。
すき家においては、毎年2月~3月頃に、多くの学生クルーが就職等を理由に退職する。
そのため、クルーに店舗運営を任せるすき家は、例年2月~3月頃に運営が厳しくなる。2014年も例外ではなく、さらに悪いことに、クルーの応募状況は前年比70%であった。すき家は、採用率を引き上げることにより対応していたが、それでも、特に都心を中心に人手が不足していた。
(中略)
こうした状況下であったにもかかわらず、2014年2月14日に従前の商品よりもオペレーションが複雑な牛すき鍋が新商品として投入された。牛すき鍋投入による現場への負荷を懸念する声が本部に十分伝わることなく、本部が牛すき鍋の仕込みに係る時間を甘く見積もって牛すき鍋投入を決定した結果、現場のオペレーションが十分機能せず、クルーや現場社員のサービス残業・長時間労働が増加し、現場は疲弊した。
(『「すき家」の労働環境改善に関する第三者委員会 調査報告書』より)
「クルーや現場社員のサービス残業・長時間労働が増加し、現場は疲弊した。」という記述は、ある種の文学性すら感じるフレーズである。
実のところ、私達が示す強い関心の根底にあるのは、「これはどうも他人事とは思えない」という感覚ではないだろうか。この報告書を読んで、「規模や業種は違うけれど、うちがやってることと、そう違わないんじゃないか」と感じる人は、かなり多いように思われる。
一般論として、経営資源は常に充足することがないものだ。戦略とは、逆境においても、最大限の戦果を挙げるための「智恵」であるが、頭でっかちだけでは大きな事を成すことはできない。そこには「強靭な意思に裏付けられた現場の奮闘」が絶対的に必要不可欠である。
世の中には、現場の人々の積極的意思のもとで苦労を分かち合い、困難な目標が達成されることもある。これが成功譚となると、後々まで美談して語られる。
しかし、全てのプロジェクトが成功するわけではない。「現場の奮闘」の裏腹には、「現場の疲弊」がついてまわる。「疲弊」とは主観的なものであり、数値化しようと思ってもなかなか難しい。仕事が厳しいのか、それとも従業員が甘えているのか、常に「程度問題」という「問題棚上げワード」が横たわり、問題を見えにくくする。
また、代替可能性という言葉も避けて考えられない。特別な才能が必要とされる仕事でない限り、「誰かが倒れてしまったら次を補充すればよい」という論理が生じてしまうのである。もちろん、経営者として、極端に非人道的な考えを持つ人が大半ではないだろうけれど、実際のところ、「一般的なレベルの人道的感覚」程度では、需給バランスに打ち克つことはできない。そのように現在の社会が構造化されているということは、現実としてある。
私達の社会において、「現場の疲弊」が経営課題の最優先事項になることは少ない。大きな被害が発生して初めて注目される。ヒヤリ・ハットの法則のようなもので、おそらくこの社会のなかで、同種の課題を抱えている企業は相当な数にのぼる。
【次ページ】すき家の話が他人事と思えない2つの理由
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