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  • 2017/03/10 掲載

セラミックス世界最大、森村グループ創始者の「グローバルで勝つ力」

連載:企業立志伝

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「森村グループ」と言われてピンとくる人は少ないかと思いますが、TOTOやLIXIL(正確には前身のINAX)、ノリタケという社名を知らない人はほとんどいないはずです。これに日本ガイシや日本特殊陶業などの名だたる企業が関わる森村グループは「世界最大のセラミックス企業グループ」と言われています。その礎を築き、明治期に日本製洋食器によって日米貿易の先鞭をつけたのが、グループの創始者・森村市左衛門(六代目)氏です。貧しい生まれの森村氏が、世界で勝てる企業グループを育てることができたのには理由がありました。

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

経済・経営ジャーナリスト 桑原 晃弥

1956年広島県生まれ。経済・経営ジャーナリスト。慶應義塾大学卒。業界紙記者を経てフリージャーナリストとして独立。トヨタからアップル、グーグルまで、業界を問わず幅広い取材経験を持ち、企業風土や働き方、人材育成から投資まで、鋭い論旨を展開することで定評がある。主な著書に『難局に打ち勝った100人に学ぶ 乗り越えた人の言葉』(KADOKAWA)『ウォーレン・バフェット 巨富を生み出す7つの法則』(朝日新聞出版)『「ものづくりの現場」の名語録』(PHP文庫)『大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ』(ビジネス+IT BOOKS)などがある。

大企業立志伝 トヨタ・キヤノン・日立などの創業者に学べ (ビジネス+IT BOOKS)
・著者:桑原 晃弥
・定価:800円 (税抜)
・出版社: SBクリエイティブ
・ASIN:B07F62BVH9
・発売日:2018年7月2日

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日本企業が洋食器で世界をまたにかけるようになったのには理由がある
(© Africa Studio – Fotolia)


なぜ10代で藩邸での商いができたのか

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 1839年、森村氏は初代からずっと市左衛門を名乗ってきた江戸・京橋の馬具商の六代目として生まれました。元は旗本出入の老舗でしたが、当時の森村家は借金による貧困に苦しんでいたうえ、幼い森本氏も生まれつき病弱で、早くに母親を亡くしたため、数え年13歳で呉服問屋に見習い奉公に出たそうです。

 しかし、病に苦しんだ森村氏はわずか3年で実家に帰ることになったうえ、安政江戸地震や日本橋大火によって屋敷や家財のすべてを失ったため、昼は日雇い労働者として、夜は銀座で露天商として働くなど苦難を乗り越えるために懸命に働くことになりました。

 やがて倹約に倹約を重ねて蓄えた資金を元手に、京橋に再び武具・袋物商を開いた森村氏は日米修好通商条約によって開港になったばかりの横浜でさまざまな外国商品を仕入れ、土佐藩や中津藩の藩邸などに行って商売をするようになります。

 当時、まだ10代の森村氏がなぜ藩邸での商いが可能になったのでしょうか。

何でそう私にやらせるのかというと、つまり熱心だからである。熱心と正直ということが広告になって、何でも言いつけられた。ただ熱心で、そうして儲けない。よそでは2割も儲けるというのに、こちらは5分しか儲けないというやり方をするから、自然に信用というものが集まってくる。
(出典:『森村市左衛門の無欲の商売』p30~p31)


貿易の重要性を知った福沢諭吉との出会い

 この時に出会ったのが中津藩の福沢諭吉氏です。のちに森村氏は「国家のために外国貿易を」と考え、実行に移しますが、そこには福沢氏の強い影響があり、また弟の豊吉氏(のち「豊」に改名)に英語を習わせるために福沢氏の慶應義塾に入学させています。

 その後、森村氏は相次ぐ事業の失敗によって多額の負債を抱えることになりますが、フランス軍から学んだ馬具の製造によって見事に立ち直っています。

 しかし、役人からの賄賂の要求に怒った森村氏は順調だった馬具製造の事業一切を陸軍省に差し出し、森村氏自身は弟の渡米を期に、つねづね考えていた外国貿易を行うために「森村組」を創立しています。

 森村氏は貿易の重要性について義弟の大倉孫兵衛氏にこう話していたそうです。

自分の貿易業は国家の死活にかかわるほど重要なのだ。これからは外国の金をとって日本の金を殖やさねばならない。日本内地だけの商売では、右の袂のものを左の袂に入れるようなもので、日本の金が殖えない。少しでも外国の金を輸入しなければならない。これが商人の本分だ
(出典:『森村市左衛門の無欲の商売』p69)


画像
森村グループの主なできごと
(出典:各社の沿革情報)


なぜ日本企業が洋食器で世界に勝てたのか

 1878年、森村豊氏は森村組ニューヨーク支店を開設。本格的な貿易事業に乗り出しますが、最初は日本の道具屋で森村氏が仕入れたものをアメリカに送って弟が売るというような商売でした。

 それでも順調に売り上げは伸び、やがて弟の豊氏からフランス製のコーヒー茶碗の見本とともに「このような製品が日本でできれば、アメリカでは大量に売れるはずなので、試しにぜひ焼いてみてくれないか」という依頼が来たことが、森村組が陶磁器の製造に乗り出すきっかけになりました。

 当時の日本にはもちろん立派な焼き物をつくる力はありましたが、どの窯元も洋食器をつくった経験はありませんでした。まったく製法が分からず、どの窯元からも「できない」という返事が返ってくるばかりでしたが、豊氏の熱意に押された森村氏や大倉氏が窯元と共に努力を重ねた結果、日本製コーヒー茶碗はようやく完成、アメリカで素晴らしい販売成績を上げることになりました。

 その後も豊氏からはさまざまな注文が届きますが、さらなる発展のためには需要の多いテーブルウェア(食卓用食器具)が必要だとして、挑戦した白色硬質磁器のディナーセットには大変な苦労をすることになります。

 当時の日本の陶磁器は生地の色が純白ではなく灰色で光沢が少ないという欠点がありましたが、ディナーセットに求められるのはヨーロッパの陶磁器のような純白の生地と光沢、そして強さです。

 そのためにはすべてを一から自分たちでやる必要があると考えた森村氏は1904年、現在の名古屋市西区則武新町に日本陶器合名会社 (現在のノリタケカンパニーリミテド) を設立、近代的な設備を備えた大工場を建設しました。目指したのは「舶来品と同質の日用品をつくり、欧米人に使ってもらう」というものです。

【次ページ】20年もの歳月を要する困難な事業を続けた理由

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