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  • 2009/05/18 掲載

「逆選択」と「モラル・ハザード」:篠崎彰彦教授のインフォメーション・エコノミー(6)

九州大学大学院教授 篠﨑彰彦氏

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アカロフは中古車市場を取り上げて、取引される財・サービスの質的情報に非対称性があれば市場がうまく機能しないことを明らかにした。これをさらに詳しくみると、取引開始前の情報の非対称性から生じる問題(逆選択)と、取引開始後の情報の非対称性から生じる問題(モラル・ハザード)に整理できる。今回は、これらの概念を解説しながら、その解決方法とITの可能性を考えてみよう。

執筆:九州大学大学院 経済学研究院 教授 篠崎彰彦

執筆:九州大学大学院 経済学研究院 教授 篠崎彰彦

九州大学大学院 経済学研究院 教授
九州大学経済学部卒業。九州大学博士(経済学)
1984年日本開発銀行入行。ニューヨーク駐在員、国際部調査役等を経て、1999年九州大学助教授、2004年教授就任。この間、経済企画庁調査局、ハーバード大学イェンチン研究所にて情報経済や企業投資分析に従事。情報化に関する審議会などの委員も数多く務めている。
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インフォメーション・エコノミー: 情報化する経済社会の全体像
・著者:篠崎 彰彦
・定価:2,600円 (税抜)
・ページ数: 285ページ
・出版社: エヌティティ出版
・ISBN:978-4757123335
・発売日:2014年3月25日

情報の非対称性が生み出す問題(1):
逆選択(取引開始前の情報の非対称性)

 前回解説したアカロフのレモン市場では、中古車の売買が実行される前に、売り手と買い手の間で、中古車の質に関する情報の非対称性が存在していた。その結果、市場には調子の悪い中古車(レモン)だけがはびこって、調子の良い中古車(ピーチ)が駆逐されるという問題が起きた。市場を通じて、人々は良いものを選んで取引しようとしているのに、結果的には逆のことが起きており、この現象を「逆選択」という(図1)。

図1 情報の非対称性が生み出す問題

図1 情報の非対称性が生み出す問題



 たとえば、保険市場を考えてみると、一人ひとりは自分の健康状態をよく知っていても、保険会社は健康に自信のある壮健な人と、健康に不安のある病弱な人の区別が個別にはつけにくい。つまり、加入者の健康に関する情報の解像度が低いのだ。健康に自信のある壮健な人は病気になる確率が低く、健康に不安のある病弱な人は病気になる確率が高いと考えられるが、それを識別できない保険会社が、全体をひとまとめにして平均的な疾病率で保険料率を決定するならば、壮健な人にとっては割高で、病気がちの人にとっては割安な保険料となってしまう。

 この状態では、健康に自信のある人は割高な保険への加入を敬遠し、疾病確率の高い人ほど加入する傾向が強まる。すると、保険に加入しているグループの疾病確率はますます上昇し、保険料率のさらなる引き上げが迫られるだろう。その結果、健康に自信のある人は、次々に保険への加入を見合わせ、保険料が一段と高まるという連鎖が生まれてしまうことになる。

 同じことは、自動車保険にも当てはまる。もし、運転の技能が高くて安全運転が身についているドライバーと、技能が未熟で事故を起こしがちなドライバーの区別がつかないために、保険会社が一律の料率で保険料を課すならば、安全運転のドライバーには割高で、事故を繰り返す危険なドライバーには割安な自動車保険となり、結果的に運転に問題のある危険なドライバーだけが保険に加入する傾向を強めてしまう。アカロフのレモン市場と同様に、レモンがピーチを駆逐する「逆選択」が起きるのだ。

情報の非対称性が生み出す問題(2):
モラル・ハザード(取引開始後の情報の非対称性)

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 このように、取引開始前の情報の非対称性は「逆選択」の問題を引き起こすが、他方で、取引開始後の情報の非対称性は、これとは異なる問題を生み出す。上記の自動車保険の例を再び用いれば、保険契約後の加入者に規律の緩みが生まれてしまうという問題だ。これは、自動車保険に加入した結果、多少荒い運転をして車にキズがついても、保険会社が修理費を支払ってくれて自分の懐は痛まないため、気持ちにスキが生まれて安全運転をおろそかにしたり、極端な場合は、保険金目当てに故意にキズをつけたりするような行動を招きかねないということだ。経済学では、こうした行動規範の緩みを「モラル・ハザード」という(図1)。

 モラル・ハザードが生まれるのは、保険会社が自動車保険に加入した後の運転者の行動を完全には監視(モニタリング)することができないからだ。自動車保険の加入者が従来どおりの慎重さで運転したにもかかわらず不慮の事故で車をキズつけたのか、モラル・ハザードによって事故が起きたのかを保険会社が識別できないとすれば、どちらも同じ扱いにせざるを得ない。取引開始後の行動をモニタリングする費用が高く、「情報の非対称性」があると、このような問題が誘発されやすい。

 同じことは、雇用契約でもみられる。たとえば、引越しのアルバイトを雇った場合に、雇い主が作業の様子をモニタリングできない状況で、時給払いの契約にすると、テキパキ働けば3時間で終了する作業を5時間かけるような手抜きを誘発しかねない。この例も、引越しの作業について、アルバイト契約後に雇い主と作業者の間で「情報の非対称性」があることから生まれるモラル・ハザードの一種だ。

情報の非対称性を克服する手段(1):シグナリング

 現実社会では、逆選択やモラル・ハザードなど、情報の非対称性に起因する問題を克服するためにさまざまな手段が講じられている。そのひとつがシグナリングだ(図2)。シグナリングは、情報を持っている側が持っていない側に積極的に情報を発信して非対称性をなくそうとする行為で、品質保証、ブランド、資格などがそれにあたる。

図2 情報の非対称性を克服する手段

図2 情報の非対称性を克服する手段



 たとえば、アカロフのレモン市場で、情報を持っているピーチの中古車の売り手が、「2年間の無料修理」という品質保証をつけるならば、調子が悪くてそうした保証のできないレモンの売り手との違いをシグナルとして発信することができる。そうすれば、品質情報の少なかった買い手が、この売り手は中古車の品質に自信を持っているので、売り出されているのはレモンではなくピーチだと判断しやすくなる。食品などの安全問題でも、使用される原材料の産地、加工地、製造方法などを明示することで、消費者に品質の違いをシグナルとして発信することができる。

 また、学歴や資格などもシグナリングの一種だ。現在は、来年新卒予定者の就職活動が盛んな時期だが、一般に、労働市場は情報の非対称性が大きいことで知られている。なぜなら、求職者は自分のことをよく知っているが、採用する企業の側は求職者の技能、能力、協調性などについて、充分な情報を持っていないからだ。このとき、学歴や英語検定試験のスコアなどは、情報をより多く持つ求職者から情報が相対的に少ない採用企業側へ発するシグナリングとして機能する(もちろん、それが必ずしも的確ではない例もあるのだが)。

 企業や商品のブランドにも同様の機能がある。はじめて訪れる見知らぬ土地で、レストランやホテルの選択に迷う場合、フランチャイズで標準化されたブランドの店舗があれば、どのようなサービスのグレードか内容が「見える化」するため、少なかった情報量が増して、より的確な選択がしやすくなるだろう。このように、情報を多く持つ主体が情報量の少ない主体へ積極的にシグナルを発すれば、情報の非対称性を緩和させ、「逆選択」の問題をうまく回避できるのだ。

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